森の踏切番日記

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『城塞』下巻再読・真田幸村の最期

『城塞』再読(16)

🐱司馬遼太郎『城塞』下巻を再読しております。いよいよ運命の日がやってまいりました。

 


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目指すは家康の首! ただ一つ!

 

 

慶長20年(1615)5月7日

真田幸村の主力は茶臼山の南谷に布陣している。真田軍には大谷刑部吉継の長男吉治もいた。毛利勝永軍は四天王寺の塀の南側にある庚申堂のあたりに布陣している。岡山方面軍として、大野主馬の軍団が味原池のあたりに布陣している。また、幸村の案で、速水守久らが遊軍として四天王寺付近の藪の中に伏せている。さらに、幸村の案で全軍の遊軍部隊として明石全登率いるキリシタン軽騎兵部隊三百騎が船場に布陣した。

▶幸村の計略というのは、敵を四天王寺台地の狭隘部に引きつけている間に明石隊が敵の背後に回り、手薄になるはずの家康本陣を襲い家康を討ち取るというものであった。

この人物は、ぎりぎりまで計算力を働かせ、みずからの運を最後まで見すてることがなく、その執拗さは異常であった。

もっとも幸村は、秀頼の死は免れないと思っていた。家康を道連れにして刺し違えることによって、自らと豊臣家の武を完結させようという執念であった。

▶幸村は、秀頼の床几所を四天王寺西門の石鳥居の前に決めていた。秀頼も出陣するつもりでいた。大野修理は秀頼直属軍を率いている。修理は自分が主将のつもりでいる。

▶そこに家康側から和議が持ち掛けられる。使者は常光院と後藤庄三郎である。これは、大坂方の気勢をそぎ、心をくじけさせるための家康の策謀であった。

▶これを知った幸村は

古今の悪人とは駿府翁のことかな。

と息子の大助にもらしたという。幸村は大助に秀頼の出馬を説得するために城に戻るように命じる。大助は敵を前にして戦場を去ることを拒んだが、幸村は聞き入れず大助を城の方へ下げた。

▶これには、幸村が真田本家を通じて家康に内応するのではないかという疑惑が城内の一部にあり、人質のつもりで大助を城へやったという見方もある。

 


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◾大坂方五万に対する徳川方は三十万である。岡山口へは、先鋒・前田利常以下、黒田長政加藤嘉明藤堂高虎井伊直孝ら。天王寺口へは、先鋒・本多忠朝以下、真田信吉・信政、浅野長重、秋田実季ら。住吉へ向かう大和口へは、先鋒・水野勝成以下、松平忠明、松平忠政、伊達政宗松平忠輝である。さらに、守口方面軍として、京極忠高、京極高知らがいる。

▶家康は、主決戦場たる天王寺口の総指揮をとることに決め、岡山口を秀忠に任せる。秀忠はそれが不満だったが、家康は、この期に及んでも不安だったのだ。

(そのほうのような馬鹿になにができるか)

司馬遼太郎の秀忠に対する評価は、

もし庶民のあいだにうまれていれば質屋の帳付けか、寺子屋の師匠しかつとまらぬという男

である。この陣中本多正信は老齢(78歳)のため駕籠に乗っていた。

▶冬の陣で二万の大軍を率いて真田丸を攻め、幸村のために散々な目にあわされた松平忠直は、夏の陣において、前日の八尾・若江の戦いに参加するはずだったにもかかわらず、酒を飲んで戦闘に参加しなかったことで家康に激怒され、この日は持ち場を与えられなかったが、名誉挽回のために抜け駆けをして夜明け前に茶臼山の前に布陣した。

 


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月岡芳年:一魁随筆・真田左衛門尉幸村

(銃を持っている)

 

 

正午頃、開戦

◾東軍先鋒本多忠朝隊の銃隊が、毛利隊本営に徐々に接近してくる。

▶敵からの圧迫感に堪えきれなくなった渡辺糺は、鉄砲隊に射撃を命じてしまう。幸村も勝永も慌てて制止したが、城将である渡辺は牢人に反感を持っていたため言うことを聞かない。これにより、早くも幸村の作戦は破綻してしまう。

わが策は、ついにやぶれた。

▶幸村と勝永はやむなく戦闘方針を接戦に切りかえた。

考えてみれば大坂入城以来、何度となく軍議がおこなわれたが、幸村の策が容れられたことはまれであった。そなたでは無理である、と亡父の昌幸が息をひきとるにあたって幸村にいったことばを、いまさらのように脳裏によみがえらせていた。

冬の陣での活躍ぶりをもってしても、

幸村の命令が威厳をもって全軍にゆきとどくというぐあいには、とうていゆかなかったのである。

▶勝永は軍勢を二手に分け、本多忠朝隊を挟撃、忠朝を討ち取り忠朝隊を壊滅させ、さらに小笠原秀政隊を破り、秀政に重傷を負わせ(夕方に絶命)、その子忠脩を討ち取った。毛利隊は五千にすぎなかった。東軍先鋒軍は二万近い大軍であったが、その七割方が潰乱した。毛利隊はその後も徳川譜代衆を潰走させ家康本陣に迫る善戦を見せている。

 

士卒もこの戦いの性質がどういうものであるかを知っている。もはや功名の場というものではなく、万死の中で、かろうじて一勝を見出そうという戦闘であった。

目指すは家康の首、ただ一つ。

それ以外に、この絶望的な戦闘のむこうに光明を見出す方法はない。

 

▶幸村も三千五百の兵を率いて茶臼山を降りる。相手の越前衆(忠直軍)は汚名をそそごうと凄まじい勢いで突進してくる。真田隊の突撃はそれ以上に苛烈であった。激しい白兵戦の末、敵の右翼を突破する。

▶毛利隊の善戦を見た幸村は、混乱する敵の間隙を縫って家康の本陣を襲うことを決心する。ここで、幸村は自分の影武者を二人用意している。(七人いたという話もある)

▶幸村は手勢五十騎程を率いて家康の本営に向かって突進する。このとき、敗色濃厚の東軍の中に「紀州の浅野勢が寝返った」という虚報が駆け巡り、東軍は恐慌状態に陥る。

▶その中を疾風の如く斬り込んで行く幸村率いる五十騎は、徳川頼宣率いる駿府衆を蹴散らし、ついには家康本陣に迫り、旗本衆を切り崩した。混乱した旗本衆は、家康を置き去りにして逃亡、金扇などの馬印や旗印が田の中に投げ捨てられる有様であった。

▶幸村の突撃は二度にわたっておこなわれた。家康は最初の真田勢襲来のときに逃げている。家康は侍臣数名と共に騎馬でもって逃れた。玉造方面(あるいは八尾方面)を目指したが、途中「二度まで自殺を口走った」という。二度目に幸村が家康本営を襲ったときは本営は空であったが、凄まじい襲撃だったという。

 


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歌川芳虎:大坂平野合戦真田幸村地雷火をもって関東の大軍を破る(部分:1870)

 

 

※家康の逃げた方向については諸説あるが、三里逃げたという。平野・久宝寺辺りに逃げたと考えるのが妥当か。

三方ヶ原の合戦以来くずれたことがなかった金扇の馬印が、ここでくずれたことになる。

※大坂の町の巷説

真田幸村が神出鬼没しよってな、その度に家康の狸はな、幸村の槍先に追い立てられよってな、必死のパッチで逃げよったんやて」

※大坂・堺辺りの都市伝説

「ホンマはな、家康はな、この時死によってん。次の年に死んだ奴な、あれは替え玉やねん」

 

茶臼山を捨てた幸村はその軍団をときには散らして敵を挟撃し、ときにはまとめて敵の中央を突破し、さらには二度にわたって家康本営を急襲したりしたが、午後二時ごろにはその軍勢のほとんどが死傷して従う者がわずかになった。

 


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歌川芳虎:大坂平野合戦真田幸村地雷火をもって関東の大軍を破る(1892)

 

 

安居天神

◾大坂方は奮闘したが、多勢に無勢で次第に劣勢となった。幸村は勝永に城へ退くように伝令を送り、自身は殿戦(しんがり)を買って出る。

幸村はもはやこの場で死ぬつもりであったのであろう。

▶このとき、周囲には既に東軍が押し寄せていたが、勝永は退却するにあたって用意しておいた地雷火を爆発させる。この地雷火は幸村が考案し、勝永に操作法を教えたものである。埋めておいた火薬箱の導火線に点火させると、地雷火は大爆発して土砂を天に吹き上げ東軍を怯ませた。その隙に勝永は城へと退却した。

▶幸村は四天王寺西門付近でその音を聞くと、一心寺門前の坂を東へ下った。わずかに下ると右手に小さな森がある。安居天神である。

▶幸村はその境内に入って、崩れるように座り込んだ。既に満身創痍の上に疲労困憊の極みに達していたと思われる。

そこへ越前の士西尾久作(のちに仁左衛門と改名)が入ってきて、名乗りをあげた。幸村は顔をあげず、応答もしなかった。西尾はらくらくと槍をつけた。

▶西尾が話に尾鰭をつけて手柄話をすると、

家康はにわかに機嫌を悪くし、

「うそであろう」

と、一喝した。

 


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安居天神の真田幸村公之像と戦死跡之碑

著作者:Yanajin33(WikimediaCommons)

 

 

※『細川家記』(細川忠興の書状)

真田左衛門佐合戦場において討死、古今これなき大手柄、首は越前宰相殿鉄砲頭取り申し候、さりながら手負ひ草臥れ伏して居られ候を取り候に付、手柄にも成らず候

 

※『薩藩旧記雑録』

五月七日に御所様の御陣へ真田左衛門しかかり候て御陣衆を追い散らし討捕申候、御陣衆三里ほどずつ逃げ候衆は皆々生き残られ候、三度目に真田も討死にて候、真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)古(いにしえ)よりの物語りにもこれなき由、惣別これのみ申事に候

 

※『真田君伝記』によると、首実検をした真田信尹はよくわからないと言い張って、信繁の首と認めようとしなかったという。首実検のあと、東軍の諸将が信繁の武功にあやかろうと髪を抜き取って懐中におさめたという。

 

※信繁の家臣もほとんどが討死したという。堀田作兵衛興重も討死した。高梨内記は大助に従っていた可能性がある。

 

 


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出典:Wikipedia(Jmho)
 

 

 

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12月16日放送

NHK歴史秘話ヒストリア

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◾夏の陣の天王寺・岡山の戦い
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左・茶臼山、右・岡山


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丸馬出


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※信繁の戦略


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敵を引き付けて、徳川本営を孤立させる。


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横から騎馬隊が出撃し、徳川本営を急襲。


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真田丸発掘調査団長・千田嘉博氏


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◾冬の陣の真田丸余話
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冬の陣の真田丸で使われた火縄銃と同型の銃


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