『城塞』再読(8)
🐱 司馬遼太郎『城塞』中巻を再読しておりますが、真田丸の攻防戦の前に、真田丸の形状問題について振り返っておきましょう。
◾真田丸「築城」
🐱大坂城の弱点は、平坦な上町台地が続く城南にあり、秀吉も気にしていた。そのため堀をつくり、塀と櫓が続く惣構を設けていたが、まだまだ手薄であった。家康側も当然主力を城南に集中させることになる。
🐱真田幸村は、「この城の最大の弱点を、おのれ一手で塞ぎ止めてみせよう」と思い、城南の守備を志願し、三ノ丸の南限の堀の外に小城塞を築く。これが真田丸である。
🐱『城塞』では、淀殿が、家康方に真田信吉・信政が出陣している幸村は内応するつもりではないかと疑う。
※幸村は、そうした疑念を払拭するために激戦が予想される南面の守備を志願したという説もある。また、後藤又兵衛も南面の守備を志願して幸村と持ち場を争ったが幸村の思いを知り譲ったという説とか、又兵衛が遊軍になったため幸村が真田丸に入ったという説など、いろいろ説があるようだ。
◾真田丸の形状問題
🐱真田丸の形状については、 NHKの『歴史秘話ヒストリア』でも今年の初めに取り上げられていて、大河ドラマ『真田丸』では、新説に基づいた真田丸を築くようである。
🐱司馬は真田丸について、「ほぼ正方形の敷地で、一辺は百間(182㍍)である」としているが、旧来の説では、真田丸は半円形の出丸で、武田系城郭に特徴としてみられる「丸馬出」の発展形と見られていたようだ。
🐱真田丸は、その三方に空堀を掘り、塀を二重にかけ、柵を三重につけ、所々に櫓を設け、幅七尺の武者走り(通路)をつくり、その武者走りにはびっしりと銃を配したという。(『大坂御陣山口休庵咄』)
🐱新しい見解については、『真田四代と信繁』(丸島和洋著:平凡社新書)から引用する。
ところが近年、千田嘉博氏により、真田丸は大坂城から離れた場所に築城され、出丸という言葉から連想される規模を遥かに超えた大きさを有していたという見解が提示された。
たしかに、大阪上町の発掘成果報告書によれば、真田丸と大坂城惣構えの間には低地と水路が確認され、惣構えから離れた場所に築かれたことがわかる。これは、従来知られていた広島市立中央図書館浅野文庫の「真田丸絵図」と一致しており、同絵図の正しさが証明された。
出丸から惣堀の間に細道をつけて大坂城中に出入りできるようにしていたという(『辛島若狭大坂物語』)。
🐱大河ドラマ『真田丸』では、この形状の真田丸を築城するようだ。
※旧説に基づいた半円形の真田丸
◾真田丸の跡地問題
🐱真田丸は旧説では、大阪市天王寺区の三光神社ないし、その南の真田山公園にあったとされる。ところが、前出の『真田四代と信繁』によると、
慶應義塾大学所蔵「大阪北組旧蔵大阪町絵図」(幸田文庫)をみると、三光神社所在地には「宰相山」と記されており、真田丸を攻撃した前田利常(加賀宰相)が布陣したと推定される。実際に真田丸があったのは、その西にあたる丘陵で、近世にはこの地が真田山と称されていた。このため、現在の明星学園の敷地が正確な真田丸跡地と推定されている。ようするに、いつの間にか名称が入れ替わってしまったわけだ。
ということで、明星学園には顕彰碑が設置されている。
🙀この地図は1990年代の地図です。
🙀この地図は、司馬遼太郎が『城塞』を執筆した頃(1970年代)の地図です。囲んだ部分が大坂城三ノ丸(惣構)のだいたいの領域です。下方の小さい囲みが真田丸のだいたいの推定地。
さらにこの三ノ丸の南限は、南の方の清水谷までおよんでいる。現今の地理でいえば、環状線玉造駅が三ノ丸の東南角に相当し、そこに黒門と称せられる城門がある。玉造駅から西へ、松屋町筋(南北の道路)に交叉するまでの線が、大坂城南限線であった。最近までここに市電が走っていたが、いまはレールがはずされ、ただの道路になっている。この道路は、両側の土地よりやや低く、場所によって谷といえるほどに低い。この道路が、豊臣期の大坂城南限の堀であった。
(画面右上佐竹義宣の右が真田信吉・信政)
三光神社の真田幸村公之像🔎Google マップ
(左に見える穴は真田の抜け穴と云われている)
心眼寺🔎Google マップ
松江歴史館の「真田丸絵図」
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