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森の踏切番日記

人生LARKしたい

『城塞』中巻再読・家康の悪謀

『城塞』再読(11)

🐱司馬遼太郎『城塞』中巻を再読しております。今回は、講和会談の経過から講和後の状況まで、家康の悪謀をざっくりと振り返ります。

 


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◾12月17日、家康、後水尾天皇の仲介を拝辞。

家康からしてみれば、今さら朝廷に出しゃばって欲しく無いのだろう。朝廷・公家は大方豊臣びいきだった。

 

※この日、徳川方は、領地加増を認める代わりに大坂退去を求めたという。秀頼が頑なに拒否したため、有楽が淀殿に「淀殿母子が自害して兵の助命をするか、和睦をして機会を待つかの二者択一しかない」と迫り、ともに秀頼を説得したという話もある。

 

 

◾同日夜半、塙団右衛門、徳川方蜂須賀麾下の中村右近陣所へ夜襲をかける。

この時、「夜討の大将塙団右衛門直之」と書いた木札を諸方にばらまかせて引き揚げている。

 

 

◾12月18日、常高院阿茶局による講和会談始まる。

常高院は、浅井三姉妹の真ん中の初のこと。淀殿の妹で徳川秀忠夫人お江の姉。京極高次に嫁したが、高次に慶長14年(1609)に先立たれ、剃髪して常高院と称した。その立居振舞の艶めきは当時評判だったという。彼女は秀吉から二千四十石の領地を貰っていたので、平素は京で気ままに暮らし、ときどき大坂にくだって姉の淀殿の話し相手になっていた。『城塞』では、冬の陣が始まった時、たまたま大坂城内にいたので、そのままとどまっている。当時四十歳代前半だった。息子の忠高は徳川方についている。司馬は、交渉会場を忠高の陣屋(今里の真宗寺)としている。常高院は夏の陣でも落城前日まで姉淀殿に講和を説得している。

 


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常高院VS阿茶局

 

 

◾12月19日、講和妥結。

講和の内容は、

  • 籠城牢人は従来どうりいてもよい。
  • 知行の宛行は前々とおりにする。
  • 淀殿は江戸へゆく必要はない。
  • 秀頼が大坂を立ち退くというなら、どこへ替わろうと望み次第

という豊臣方にとっては望外に甘い条件だった。ただし、これには付帯条件があって、

  • 臨時につくられた惣構と三の丸、二の丸を破却すること。
  • 織田有楽斎大野治長が人質を出すこと

というものだった。『城塞』では、本多正純が言葉巧みに答礼として要求し、人の良い常高院は安請け合いしている。ここで、惣構・三の丸の取り壊しは徳川方が、二の丸の壊平工事は大坂方で実施するということになっていた。

 

 

(12月20日、講和成立)

 

 

◾12月21日、大坂方の使者、茶臼山に赴き、和睦遵守の誓書を交換する。

大坂方の使者は、正使木村重成と副使郡主馬良列(秀頼の近習頭)。ここで、重成が大胆不敵にも、家康の血判が薄いとクレームをつけ、再度の血判を要請するという逸話が生まれ、木村重成の名を天下に高らしめた。

※『大坂冬陣記』では、家康から血判書を貰い受けたのは、常高院、二位局、相庭局の三人で、12月20日と記されていて、翌日、木村重成らは、将軍秀忠から血判誓書を貰ったという。つまり、上の逸話は無かったことになる。

 

(同日、家康、松平忠明らに普請奉行を命じる)

 

 

◾12月22日、家康の使者大坂城に至り誓書を交換する。

使者は、正使板倉重昌と副使阿部正次。板倉重昌京都所司代板倉勝重の次男。『城塞』ではこの日、家康は、

「間を置いてはならぬ。即刻、支度にかかれ、十万人の黒鍬(土方)をあつめよ、仕事はあすの早朝からどっとはじめるのだ」

と、本多正純に命じている。

 

 

◾12月23日、大坂城壊平工事が始まる。

この日、早朝から徳川方により始まった惣構・三の丸の破却は凄まじい勢いで進んだ。櫓、城門を始め、三の丸にあった武家屋敷や町屋までも破壊し、ことごとく濠に投げ込んでいくという乱暴な作業である。この作業は夜を徹して行われて、翌朝には、三の丸一帯は野っ原のようになった。

▶家康は、「二の丸の濠までうずめてしまえ」と命じ、徳川方は、そのままの勢いで二の丸の濠をうずめていく。

▶『城塞』では、大野修理の抗議に対して、徳川方は「ソウ濠のソウとは総ではないのか」と屁理屈をこねている他、大坂方をとことん愚弄するやり方をしている。司馬は、権力(強者)の持つ傲慢さ、さらに、権力のかさにかかった下っ端の傲慢さを、これでもかと云うくらいに描いている。

 

※もともと講和を信用していなかった幸村は、

「もはや大坂城は無いも同然。古来、こんなばかばかしいやり方で陥された城はなかった」

と、ぼう然とする。

※幸村と又兵衛は、家康の本営を強襲することを進言するが、その日、家康と面会しておだてられて勘違いして天狗になった大野修理は急に態度が大きくなって、これを却下する。実は、この大野修理おだて作戦も家康の悪謀なのであった。

 

 

◾12月25日夜、家康、大坂を発ち、京の二条城に引き上げる。

『城塞』では、夜襲を警戒して、予定を急に変更している。

※さらに、徳川方が大坂方を愚弄するエピソードが続くが省略する。

 

 

◾1月3日、家康、駿府へ帰る。

※引き続き、秀忠も大坂で諸隊を解散し、みずから旗本を率いて、大坂を去る。

 

 

🔘和睦成立後の淀殿

彼女(淀殿)は和睦の成立後──というよりこの大城塞が濠と塀をうしなって裸城になりはててからは──声にも張りをうしない、肩の肉が薄くなったようで、諸事気弱になっているような印象があった。

 

 

🔘家康の詭弁

「自分は秀頼を害する気持はいっさいない。城の総濠をうずめたのは、むしろ秀頼の安全を思うがためである。堀があればこそ城は手ごわい。城が手ごわければ、野心ある者が秀頼に謀叛をすすめる。堀さえうずめておけばそういう者もあらわれず、豊臣家は安泰である」

「自分は秀頼に保護を加えてきた。自分としてはあくまでも義をもって臨もうとするがためである。でありながら、秀頼は悪心をいだき、このたび反乱をくわだてた」

「わしはそれでも秀頼をたすけるのだ。このたびの和議が、その証拠である」

「しかしながら」

「秀頼がもし今後わしの恩を忘れ、悪謀を抱くとすれば、[略]、悪果たちどころに至って滅ぶにちがいない」

 

😾よく言うよな。家康に限らず、権力者(強者)の論理と云うものは常にこのようなものである。『城塞』は、これでもかと云うくらいに巨悪の典型を描いている。🐥

 

 

 

城塞 (中巻) (新潮文庫)

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😸もしも真田幸村がボブだったら

ミサスキー「幸村さん、是非大坂城に入城をして下さい」

幸村「••••••」

ミサスキー「軍資金も、たっぷり準備しましたから」

幸村「行けたら行くわ」

ミサスキー「幸村さん、冬の陣が始まってしまいますよお💦」

幸村「ゴメーン、先約があったわ。夏の陣までには行くから」

きりに代わりに行ってもらおっかなあ)