森の踏切番日記

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『城塞』下巻再読・和睦後の幸村

『城塞』再読(12)

🐱司馬遼太郎の『城塞』を再読しております。今回から、ようやく下巻に入ります。

 

🐱徳川家康にとって冬の陣における講和は、あくまで表向きのことであり、大坂から引き上げるとすぐに大坂方を追い込むべく悪謀をめぐらせているのだが、その前に今回は、冬の陣和睦後の真田幸村について振り返っておこうと思う。

 


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◾冬の陣和睦後の真田幸村

司馬遼太郎は、幸村の人柄について、

情のこまやかなうまれつきで、しかも性格にあまりひずみがなく、人あたりもよかった。

と、描写している。

※冬の陣の和睦が成立したことで、幸村は真田本家と接触が可能になった。

冬ノ陣がおわって大坂がしずかになったとき、攻城軍に参加している本家真田の陣屋にたずねてゆき、兄の名代で出陣している兄の嫡子河内守信吉十八歳とその弟信政十七歳と語りあい、また本家の重臣とも懐旧談などをして、夜ふけまで時を忘れた。

幸村は、信吉とは四歳の時に会って以来ということになる。村松殿の夫の小山田主膳とは頻繁に会っていたという。(丸島和洋の『真田四代と信繁』では嫡男小山田之知としている)

 

 

◾幸村の村松殿への書状

※姉の村松殿(松)は、人望があり、家中一同から特別な敬愛をよせられていた。彼女は、大坂に籠もった幸村の身の上を気づかって、泣くことも多かったらしい。『城塞』から、幸村が村松殿へ宛てた書状を引用する。

「ちょうど便がありましたので一筆申しあげます。さてもこのたび不慮の事にて御とりあい(冬ノ陣後の和睦のこと)になり、そのため私の日常には変化がありません。ご心配をかけていると思いますが、ただし(意外にも)まずまず相済み、私もしに(死に)申さずにすごしております。あすに変わりますかは知りませんが(明日にも政情が急変するかも知れませんが)今は何事もありません」

丸島和洋の『真田四代と信繁』によると、この書状は、慶長20年(元和元年・1615)1月24日のもので、上田に向かう旅人に託したものであったようだ。

大河ドラマ真田丸』では村松殿は江戸にいるが、実際は上田にいたようだ)

※明治時代の正岡子規も松山への手紙を松山へ帰郷する人に託している。旅人に手紙を託す方法は、郵便制度が発達していない時代では一般的なことだったようだ。

 

丸島和洋の前掲書によると他にも、2月10日に、長女すへの夫石合十蔵に対し、「もうお目にかかることはないでしょう。すへのことは気に入らないことがあってもお見捨てなきようお頼みします」との書状を送っているということだ。

 

※3月19日には、小山田茂誠・之知父子に対し、「当年中を静かに送ることができればお会いしたい」としつつも「先の見えない浮き世ですから、一日先のことはわかりません。私のことなどは、最早浮き世にいる者とは思わないでください」と書き送っている。すでに覚悟を決めていたものと思われる。

※司馬は、この手紙について、(司馬は、村松殿の舅小山田壱岐と婿の主膳としているが)次のように引用している。

「そちらの方は変わったこともないという由、満足しています。こちらのほうも無事でいますから、御心安なされたい」

「殿様(秀頼)が自分を懇ろにしてくださるのはなみなみではないが、しかし萬、気遣いのみが多い」

気遣いとは、城内の政情が複雑で心労が多いという幸村なりの愚痴であった。城内では淀殿の女官グループが権力をにぎり、戦術までくちばしを出したことがあり、さらには大野修理が滅亡の危機のなかで自分の権勢を守ろうとしてさまざまな小細工をしている。そのなかでの気遣いはよろず大変であろう。その気遣いのなかで、

「一日一日とくらし候」

愚案愚策を押しつけられる城内にあって、幸村の日常はひどくつらいものであった。これについては、

「面上ならでは(会った上でなければ)委しく申すことはできないことばかりで、書面では申せない。いずれにせよ、なつかしい思いがやまやまである。さだめなき浮世であるから、もともと一日さきなど人間知ることができないものだが、自分についてはとくに願わしく思うのは、もう浮世にない男だと思ってほしいことである。恐々謹言」

※ちなみに、後藤又兵衛の場合は、1月14日付の書状に「今日と明日が変わる浮き世は面白いものです」と書いている。

 

 

◾夏の陣直前の真田幸村の心境

※『城塞』では、夏の陣が始まる直前に、武田家旧臣で当時、越前松平藩士だった原家の系統の老人(原貞胤)が、大坂城の幸村の元を訪ねてきている。幸村は懐かしがり、夜が更けるまで語り合っている。

「私は冬ノ陣のときに討死を覚悟していたが、あのように和睦になったから生きながらえた。幸村はべつに死にいそぐつもりで大坂に入城したのではないが、男子とうまれて右大臣家から一手の大将をおおせつけられ、自在に自分の能力をふるえることは、不肖の身にすぎた幸運で、本懐だと思っている。つぎに一戦あるときは、自分はかならず討死するであろう」

それでもすこしの悔いもないと幸村はいうのである。

 

※いかに鮮やかに采配をふるい、いかに潔く戦い、いかに美しく死んで己の名をすがすがしくするか、それが戦国の世を生き抜いてきた男達の誉れなのだった。そして、その情景をのちのちの語り草にしてもらいたい、ということであった。

 

 

 

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