森の踏切番日記

人生LARKしたい

三島由紀夫の『美しい星』読んだら草生えたわ

8月の読書録05ーーーーーーー

 美しい星

 三島由紀夫

 新潮文庫(1967/10/30:1962)

 ★★★★☆

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本書は、五月頃に書店で山積みにされているのを見て、懐かしいなと思って購入した。懐かしいなと思ったのは、高校時代に同級生がこの本を読んでいたのを思い出したからだ。当時は、「自分たちは他の天体から飛来した宇宙人であるという意識に目覚めた一家を中心に、核時代の人類滅亡の不安をみごとに捉えた異色作」という訳の分からない小説にさほど興味が湧かなかったので、自分も読んでみようという気にはならなかった。ただ、『美しい星』というタイトルは妙に印象に残った。

 

本書が五月頃に書店に山積みにされていたのは、映画化されたからだったようだ。映画の方は知らないうちに公開され、知らないうちに終わってしまったようだ。本書を五月に購入したものの、すぐに読む気にはならず、しばらく本棚で寝かせていたのだが、八月になってようやく読む気になった。三島由紀夫のような文芸作品は、なんとなく真夏に読むのがふさわしいような気がするのだ。学生時代の名残だろうか。高校時代にこの小説を読んで夏休みの宿題の読書感想文を書こうとしたならば、きっと後悔したに違いない。せめて『金閣寺』にしておくべきだったと思ったに違いない。

 

 

美しい星 (1967年) (新潮文庫)

※昔の新潮文庫の『美しい星』(Amazonより)

 

 

三島由紀夫が空飛ぶ円盤に多大な関心を持っていて、昭和30年(1955)7月に発足した「日本空飛ぶ円盤研究会」の会員だったことは有名な話である。最相葉月の『星新一/一〇〇一話をつくった人』(新潮文庫)によると、会員番号12番だったそうだ(星新一は143番)。熱心に円盤観測会などのイベントにも顔を出していたという。

 

空飛ぶ円盤が頻繁に目撃されるようになったのは、第二次世界大戦中からだというのが定説である。戦後も海外で目撃情報が相次ぎ、日本でも目撃されるようになった。空飛ぶ円盤に関する本も出版されベストセラーになった。最相葉月の前掲書によると、そうした中で「日本空飛ぶ円盤研究会」が発足されたということだ。会長の荒井欣一は陸軍出身で書店を経営していたという。いたって真面目な会だったそうだ。三島の他にも石原慎太郎など多くの著名人が会員に名を連ねていたが、世間では空飛ぶ円盤の話でもしようものなら奇人変人扱いされる時代だったという。

 

SFという言葉も日本ではほとんど知られていなかった。1950年代には、海外のSF映画は日本でも上映されていたし、ゴジラはすでに登場していたが、SFとは呼ばれなかったようだ。引き続き最相葉月の前掲書によると、星新一ブラッドベリの『火星年代記』の日本語訳を読んで感銘を受けたのが昭和31年(1956)のことで、この年、星新一は日本空飛ぶ円盤研究会に入会している。SF同人誌『宇宙塵』の創刊が昭和32年(1957)で、この年、星新一は商業誌デビューを飾っている。翌年、星新一は「ボッコちゃん」を発表。雑誌『SFマガジン』の創刊が昭和34年(1959)12月で、1960年代に入ると英米のSFが大量に流入するようになる。星新一が初の単行本『人造美人』を刊行したのが、昭和36年(1961)のことである。昭和37年(1962)には、第1回日本SF大会(MEGCON)が催された。筒井康隆の商業誌デビューは昭和35年(1960)であり、小松左京の商業誌デビューは昭和37年(1962)である。1960年代初頭、日本のSFは生まれたばかりであった。

 

本書の解説によると、『美しい星』は、雑誌『新潮』の昭和37年1月号から11月号にわたって連載され、同年10月20日新潮社より単行本として刊行された。作者37歳の時の作品である。当時すでに日本を代表する小説家の一人であった三島が、空飛ぶ円盤や宇宙人を題材にした小説を発表するというのは、やはり冒険だったのではないだろうか。前述の通り、日本ではSFはマイナーな存在であったし、筒井康隆のエッセイなどに書かれているように文学的にはキワモノ扱いされていたのである。本書の解説を担当した奥野健男が指摘するように、日本の純文学は空飛ぶ円盤とか宇宙人のようなものを体質的に受け付けないのだ。

 

主人公の大杉重一郎は、ある日、自身が火星人であるという意識に目覚める。当時の感覚では代表的な宇宙人といえば火星人だったので妥当な選択と云えよう。他の家族も次々と自身が宇宙人であるという意識に目覚めるのだが、長男の一雄は水星人、妻の伊余子は木星人、最後に目覚めた長女の暁子は金星人とバラバラである。一雄と伊余子は重一郎に引きずられた気配が濃厚である。この二人は重一郎ほど宇宙人にはなりきれていない。そこは水星人と木星人だなと思わせる。暁子は重一郎とは別の意味で宇宙人である。金星は英語ではVenus、つまり愛と美の女神を象徴している。三島としては、暁子は金星人でなければならなかったと推測する。ここで重要なのは、バラバラの惑星からやって来た四人が地球で家族になるという宇宙的連帯なのだろう。暁子は金星人でなければならないので、一雄と伊余子に水星人と木星人が割り振られたと見る。内惑星が兄妹で外惑星が父母ということになる。

 

火星や金星、ましてや、水星や木星に宇宙人なんかいるわけないだろうというまっとうな意見を述べる人は多いと思うが、屁理屈はいくらでもつけられるものである。例えば、遠い昔に他の星系から訪れた高度に文明の発達した宇宙人の子孫とか。彼らは地球人には見つからないようにうまくカモフラージュしているだけなのだとか。この四惑星の住人はもともとは先祖を同じくするのだが長い年月の内に忘れてしまい、大杉家の四人にはそうした記憶がないのだとか。奥野健男は、こうしたSF的発想に疎い人であったようだ。この小説にSF作品としてのリアリティが欠けているということはないのである。本書の解説は昭和42年(1967)に書かれたものだが、当時の文芸評論家のSFに対する認識がこの程度のものであったことが分かる。

 

この小説の文体は、これでもかというくらい純文学の文体である。知的で格調高く硬質な文章である。『金閣寺』の文体と比較するとよくわかるが、文章のリズムがまったく違う。決して読みやすい文章ではないが、じっくりと読ませる刺激的かつ美しい文章である。久し振りにこういう文章を読んで心地よかった。この文体で内容は宇宙人に目覚めた妄想家族の話である。このギャップが面白い。

 

ついに日は雲をつんざいて眩ゆい顔を出した。この最初の一閃を受けて、投げられた矢を発止と受けとめるように、西南の富士の頂きの雪は、突然薔薇色に変貌した。

 

1960年代から日本のSFは快進撃を始めるが、筒井康隆によると、SF作家は文壇から差別されたままであったという。昭和45年(1970)11月25日、三島由紀夫割腹自殺。ミシマの行動は私にはいまだに理解できない。1970年代、日本にSFブームが訪れ、SFの「浸透と拡散」が始まる。映画『未知との遭遇』が公開され、ピンク・レディーが「UFO」を歌った時点で、空飛ぶ円盤は一般に完全に認知されたといってよいだろう。私は宇宙人と交信できるとか、私はUFOを呼べるとか、実は私は宇宙人だとか、私は宇宙人の子供を生んだとか、私は宇宙人に拉致されたとか、頭にマイクロチップを埋め込まれて操られたとかデンパな連中が続出したものである。こうして見てみると三島には先見の明があったと云えよう。

 

あれは小学五年生の時だっただろうか、夏だったか秋だったか、放課後だったか休日だったか。とにかく小学校の校庭で遊んでいた時のことだった。男女合わせて数人いたと記憶している。一人が急に空を指さして、「あ、UFO」と言った。指さす方を見てみると、北の空を白の大きなレゴブロックの上に一回り小さい赤のレゴブロックを乗せたような物体が、西から東へ向かって音もなく水平に飛んでいた。飛行機だとすれば少し低すぎる高さである。グライダーの類でもないし鳥でもない。UFOとしか言いようのない物体だった。UFOは空を滑るように飛んで行き、すうっと消えてしまった。私がUFOを目撃したのは、この時一回きりである。

 

この小説で三島が描く地上の情景や夜空の情景は美しいのだが、対照的に登場人物は皆俗物ばかりであり、その言動は卑小で醜く滑稽である。彼らを描写する筆致は皮肉が効いていて容赦ない。この星の自然の美しさと人間社会の醜悪さが効果的に対比されている。この小説でこれだけ笑えるとは思わなかった。

 

大杉家の四人は宇宙人の自覚を持ちながら、その思考はどこまでも人間的である。主人公の妻は家庭的で平凡な主婦そのものであり、彼女は夫に影響されているに過ぎない。長男は性欲に従順な学生であり、軽薄で幼稚な野心家に過ぎない。長女は「快い怠惰な無関心」を持する美人である。何不自由なく育てられた美人は充足しているのである。

 

主人公の大杉重一郎は資産家だが劣等感を持った無為の人に過ぎない。彼は繊細で想像力豊かな人間であり、当時の東西冷戦下で現実味を帯び始めた核戦争に対する不安に耐えきれなくなった結果、宇宙人に目覚めたと云えよう。彼の宇宙人としての使命は、地上の危機を救うこと。彼をひと言で表現すると「切実」である。彼は東西両陣営の指導者に手紙を書いたり、同志を募ったり行動的であるが、地球人の大杉重一郎では恐らくこのように行動的にはなれなかったのであろう。自身の不安を払拭するためには宇宙人にならざるを得なかったのである。彼は、高等学校の同窓会で地球を救済すべく演説をぶつのだが相手にされない。彼が切実になればなるほど滑稽さが増すのは何故だろう。この星には人類を滅ぼしても余りあるほどの核兵器があるというのに。同窓会の出席者は皆俗物である。危機感の欠乏という意味では、筒井康隆の『アフリカの爆弾』などを思い出した。

 

彼は地球人の病的傾向をよく承知していた。民衆というものは、どこの国でも、まことに健全で、適度に新しがりで適度に古めかしく、吝嗇で情に脆く、危険や激情を警戒し、しんそこ生ぬるい空気が好きで、……しかもこれらの特質をのこらず保ちながら、そのまま狂気に陥るのだった。 

 

民衆というものは、戦争が始まろうが、核兵器が大量に存在しようが、放射能が垂れ流されようが、日常にしがみつくものであり、そうした状況が長く続けば感覚が麻痺してしまって、戦争だろうが核兵器だろうが放射能だろうが、気にならなくなるものなのである。

 

宇宙人であるという自覚は、自らが選ばれた存在であるという優越感をもたらす。これは疎外感や孤独感の裏返しである。長男の一雄の場合は、宇宙人であるという幼稚な優越感に満足しているに過ぎない。長女の暁子は、宇宙人であるという自覚から孤高の存在となるが、端から見れば自意識過剰の妄想女子に過ぎない。彼女の金星人としての最高の価値は「純潔」にある。ヴィーナスの純潔という逆説を作者が気に入ったに違いない。暁子は文通相手だった金沢に住む自称金星人の青年・竹宮に会いに行く。金星人だと自称するだけでも十分に胡散臭い青年であるが、暁子はすっかり信じてしまう。二人のやりとりを読んでいると、その滑稽さにムズムズしてくる。

 

竹宮の美意識には三島の美意識が投影されている。竹宮にとって、空飛ぶ円盤は美的要請によって出現する存在だという。この世界は虚妄であり、確実なのは円盤の存在と金星世界の輝かしい美だけなのだという。かなり観念的であるが、妄想女子を口説くにはこういう殺し文句が有効であるか。空飛ぶ円盤は、火星人にとっては地球救済の象徴であるが、金星人にとっては美の象徴であり、ここに大杉家の宇宙的連帯に亀裂が生じることになる。暁子は金沢の海で空飛ぶ円盤を目撃するが、そのことを家族には内緒にする。

 

「だまされる人がいるから、嘘も成り立つわけね」

 

この小説で描かれる空飛ぶ円盤目撃の描写は、よくある空飛ぶ円盤目撃談を踏襲している。三島自身は、結局空飛ぶ円盤を目撃することはできなかったのだろう。その無念がこの小説を書かせたのかも知れない。三島にとって空飛ぶ円盤は芸術上の観念的存在であるようだ。因みに、暁子が空飛ぶ円盤を目撃した内灘の北に位置する羽咋市はUFO出没多発地帯として有名である。よく知らないが、内灘町でUFOといえば、河北潟の内灘(U)噴水(F)オブジェ(O)のことらしい。

 

第四章の冒頭に出てくる「見えざる遊星ケトウ」は、インド天文学において日食や月食の原因とされた悪魔の星で、計都星のことである。『ガリバー旅行記』に出てくるラピュータ(ジブリの元ネタ)のように科学者が住んでいるという話を昔読んだ記憶があるのだが、調べてみても出典が分からなかった。

 

主人公に敵対する自称白鳥座六十一番星あたりの未知の惑星から来た宇宙人だという仙台の三人組も典型的な俗物である。白鳥座六十一番星は固有運動が大きいことで古くから知られており、アシモフなどのSFにも登場する連星系である。この辺りにも、三島のSFに対する造詣の深さがうかがわれる。

 

リーダー格の羽黒真澄は独身の万年助教授である。床屋の曽根は、他人の噂話が死ぬほど好きで嫉妬深くて下品な小市民である。羽黒の教え子だった銀行員の栗田は、惚れた女が他の男に殺されてから神経衰弱になり、すべての女を憎悪している。三人の共通項は他者に対する憎悪。最終目標は人類滅亡。草生えるわ。この三人もある日、空飛ぶ円盤を一緒に目撃して以来、自身が宇宙人であるという意識とその使命に目覚めたのだった。その言動はまったく宇宙人らしくなく俗物そのものである。曽根と栗田は羽黒に唆されてその気になっているに過ぎない。この三人は宇宙人になりきることで日頃の世間に対する鬱憤を晴らしているのだ。彼らの言動には大笑いである。ミシマ文学って、こんなに笑えたっけ?

 

暁子が金沢で竹宮に会ってから三ヶ月後、暁子の妊娠が発覚するが、暁子は処女懐胎だと言い張る。本人に処女喪失の記憶がないのである。あるのは円盤を目撃した時の恍惚の記憶だけである。薬でも嗅がされたか。それにしても、身体の変化くらい気がつきそうなものである。世の中には、物事を自分にとって都合のいいように解釈したり、都合の悪いことはさっぱり忘れてしまうことができるという特技を持つ人もいるものである。彼女もそういうタイプの人間か。あるいは、竹宮は本当に金星人だったのかも知れない。金星人の性交が地球人と同じ方法であるとは限らない。なにしろ金星人は美的な種族なのだから。

 

火星人にとって、美とは世界を虚妄にする存在であるらしい。父親は、金沢へ向かい竹宮を捜すが竹宮はすでに何処へか消えてしまっていた。竹宮という名前は実は偽名で、暁子に話した素性もすべて嘘で、女の出入りの激しい男だったことが発覚する。父親は、金星人の娘が地球人にだまされたと判断する。しかしながら、竹宮が金星人ではないという証拠はどこにもないのである。女好きの金星人だったかも知れないし、地球の女を調査していたのかも知れないし、地球に舞い降りた金星人の女を捜していたのかも知れない。目的が達せられたので金星の流儀で消えたのかも知れない。竹宮に会えなかった父親には判断のしようが無いはずであり、父親の判断はまことに人間的な判断であると云えよう。

 

この小説の最大の読みどころは、やはり後半の人類滅亡の危機を救おうとする主人公の火星人と人類滅亡を熱望する仙台の自称白鳥座六十一番星あたりの未知の惑星から来た宇宙人との論戦であろう。この小説が発表された昭和37年は、人類が核戦争の危機に最も近づいた年であると云われている。この小説が刊行された昭和37年10月は、キューバ危機の真っ只中だったのである。この小説が発表されると大きな反響があったという。評価をめぐって論争が巻き起こったともいう。この小説については多くの論評があるし研究もされているが、小難しいことは私の手に余るのでここでは触れない。

 

人類滅亡といった大きなテーマは元来SFが得意とするところである。人間の目線の高さでこういった大きなテーマを描くのは無理があるので、人類を見下ろす上からの目線で人類を客体化して描く必要がある。上からの目線といっても神の目線で描くと宗教的になってしまうので、SF的目線が必要になってくるのである。三島由紀夫はSFに理解があったので、この小説に宇宙人の目線を採用するという発想ができたのだろう。それによって人類滅亡といった大きなテーマを扱うことを可能にしたのである。この小説から宇宙人や空飛ぶ円盤という設定を除くと、かえってイタい小説になってしまうであろう。

 

しかしながら、ここまで登場人物の俗物性を散々見てきているし、宇宙人の目線といっても、ただの人間が宇宙人になりきっているだけなので滑稽さが伴う。人類の滅亡を待望する羽黒は、理論的に理性の面から人類が滅亡するのは必然であると主張する。一方、主人公の大杉は、感性の面から詩的に人類は救われるべきであると主張する。この論争は三島由紀夫自身が考え抜いた自問自答なのだろう。三島由紀夫の右脳と左脳が論争しているかのようである。宇宙人が人類を滅亡させるのではなくて、人類の自滅を待っているだけというのはSF的には、宇宙カジノで人類滅亡の時期を賭けている宇宙人たちを想像できて、ちょっと笑える。宇宙人にとって、人類滅亡はありふれたエンタテインメントに過ぎないのかも知れない。

 

羽黒たち三人組は、次第に言葉遣いが乱暴になり、俗物性を丸出しにして、主人公を口汚く罵倒し退場する。彼らは主人公をやり込めたつもりになって、いい気になっているのだ。論争の高尚さとのギャップに笑わせられる。人類滅亡派の優勢勝ちという感じである。平和への希望というのは個々の内にあるうちは弱いものである。滅びの美学というのがあるが、三島由紀夫の最期を思うと、最終的には三島は滅びの美学にとらわれたのだろうか。

 

「美しい」という概念は主観的なものだから、人によって感じ方は異なるものである。地球を美しいと感じるのは、我々が地球に生まれ育まれたからに過ぎない。宇宙人から見た地球が美しいとは限らない。人類などというものは、団子のカビのようなものに過ぎないというショートショートを昔読んだ記憶がある。私は、放射能が垂れ流されているこの星がもはや美しいとは思わない。玉に少しでもキズがついたら価値がなくなってしまう。私は、あの日以来、この星に関して投げやりである。

 


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昭和44年(1969)、筒井康隆が『霊長類南へ』を発表する。某国の核ミサイル発射場の兵士達が、つまらないことで喧嘩を始めて、うっかり核ミサイル発射ボタンを押してしまったあるね。その結果、世界全面核戦争が始まって人類が滅亡するというSFである。生き残った最後の人間が死ぬ間際に発した最期の言葉は「ナンセンス」であった。筒井康隆は、東西冷戦下における大量核兵器の存在と人類滅亡をドタバタにして笑い飛ばしてしまったのである。私は、高校一年の時にこの小説を読んで感銘を受けたものである。人類滅亡という最大の悲劇は裏を返せば喜劇に過ぎないということをこの時知った。人類の置かれている状況はまさに「ナンセンス」なのである。三島由紀夫の『美しい星』も人類滅亡という深刻な悲劇を扱いながらも登場人物の俗物性は喜劇的ですらある点において共通するものがあると(強引に)考える。

 

1990年代に東西冷戦構造が終結し、全面核戦争による人類滅亡の危機は去ったかのように思われるが、世界情勢はかえって分かりにくくなった。テロリズムは厄介な問題だが、今のところ人類滅亡にすぐに直結することはない。どこかの貧乏国が見栄をはって高価な花火を打ち上げた程度では大した問題にならない。騒いでいるのは阿呆な国だけである。しかしながら、いまだに人類が滅亡しても余りあるほどの核兵器が地上には存在していることには変わりないのである。単に我々が麻痺してしまっているだけなのである。誰かがうっかりボタンを押してしまう可能性はゼロではない。従って、この小説は今でもリアリティを持ち続けているのである。そのことを忘れてはならない。

 

例えば、この小説の設定を現代的に地球温暖化に置き換えたら台無しになってしまうと考える。核兵器はボタンを押したら即バッドエンドである。地球温暖化では弱いのである。核戦争ほどのインパクトはない。この小説のテーマは核戦争による人類滅亡でなければならないのだ。また、この小説の喜劇性は深刻な悲劇の裏返しとしてあるのである。決して、変なポーズで笑いをとるような中途半端なことをしてはならない。

 

大杉重一郎は、仙台の三人組との対決の後、入院する。本人には伏せられたが、末期の胃がんだった。重一郎は暁子に迫られて、竹宮は地球人の女たらしに過ぎなかったことを明かす。暁子は、少し揺らぐが妄想力で乗り越える。暁子の妄想力は揺るぎがない。妄想力の勝利と云えよう。暁子にとって金星人というのはアイデンティティの一部になってしまっているのだ。ここまでくれば、暁子はもう金星人でいいのでないかとすら思われてくるから不思議だ。暁子は、重一郎が末期がんで手の施しようがないことを本人に明かす。恐ろしい子である。重一郎は絶望に打ちひしがれる。重一郎の設定による宇宙人は、地球人の肉体に宇宙人の精神が宿るというものだったのだが、肉体が死ぬと精神もまた死んでしまう設定なのだろうか。精神だけ火星に帰るという発想は無かったのだろうか。彼は己の死に意味を見出すために宇宙の最高意志との交信を試みるが、なかなか上手くいかない。それでも待ち続けると、夜明け前に啓示が訪れる。

 

大杉一家は、宇宙の最高意志からの啓示に従って、指定された場所へ向かう。気持ちがバラバラになっていた家族は最後に再び宇宙的連帯を取り戻す。家族そろって空飛ぶ円盤に迎えられるのである。

「何とかやっていくさ、人間は」

投げた。それが結論かい。実際、何とかやっていくのだよな、人間は。人類はずっと綱渡りをしてきたのだと思うよ。そして、これからも綱渡りを続けて行くのだと思うよ。結局のところ、なるようにしかならないのだと思うよ。

 

この小説を家族小説として読むと、東西冷戦下の核戦争による人類滅亡の危機に敏感に反応した父親に引きずられた家族が、世間から孤立し、家族の気持ちもバラバラになるが、娘の不祥事や息子の挫折や父親の末期がんを乗り越え、再び家族の団結を取り戻す話ということになろうか。そこには、人類滅亡という一家族には手に負えない深刻な悲劇に戦きながらも、寄り添いあいながら平和を希求する平凡な家族の姿が映し出される。

 

向かう先はどうやら明治大学生田キャンパスあたりらしい。戦時中は陸軍登戸研究所があった場所である。この小説は、ここまではまったくSFではない。登場するのは宇宙人を自称しているが、ただの人間である。空飛ぶ円盤の目撃も宇宙意志との交信も自己申告に過ぎない。ところが、最後の場面で超現実的な光景が現出する。

「来ているわ! お父様、来ているわ!」

 と暁子が突然叫んだ。

 円丘の叢林に身を隠し、やや斜めに着陸している銀灰色の円盤が、息づくように、緑いろに、又あざやかな橙いろに、かわるがわるその下辺の光りの色を変えているのが眺められた。

三島由紀夫は、どうしても空飛ぶ円盤に遭遇したかったに違いない。自分の小説で実現させてしまった。この小説は、この場面の解釈次第でSFとして読むこともできる。そういう仕掛けになっているのだ。この円盤が象徴するものが「恩寵」なのか「幻滅」なのかは、読者の判断に委ねられている。この小説が純文学なのかSFなのかは重要ではない。この小説は、紛れもなくミシマ文学なのだから。

 

 

 

 

美しい星 (新潮文庫)

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📄関連図書

霊長類 南へ (角川文庫)

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😺★★★★☆

🐱三島由紀夫の『美しい星』とは対極にある小説だが、テーマは共通している。バカバカしさの極地。霊長類必読の書である。

 

 

 

 

 

📄伝言板

高校一年の時の国語の先生に連絡です。長らく提出を怠っておりました夏休みの宿題の読書感想文ですが、これをもって提出したことにさせていただきます。よろしくお願いしま~す☺