森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

最果タヒの『星か獣になる季節』を読んだ感想~俺は星にも獣にもなりたくなかった

2月の読書録04ーーーーーーー

 星か獣になる季節

 最果タヒ

 ちくま文庫(2018/02/10:2015)

 ★★★★

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俺の高校時代のガッコーは猿山だった🐵どいつもこいつも阿呆づらで☆落ち着きが無くて☆キーキー騒いでうるさくて☆猿山のてっぺんを争ったり☆赤い尻を追いかけたり追いかけられたり☆他のヤツの屁の勘定をして笑い転げたりする野蛮なサルどもばかりがいた🐵そんな猿山になぜヒトである俺が放りこまれたのか☆さっぱり理解できなかった🐵俺は当然のことながら野蛮なサルどもを相手にしなかった🐵だから俺はサルどもから嫌われていたのだが気にはならなかった🐵だって俺は人間だもの🐵ウキッ🐵高校時代の俺は猿山の中でとまどっていた🐵途方に暮れていたと云ってもいい🐵そんな時☆三島由紀夫の「若さとは過剰なエネルギーなのだ」という言葉に行き当たり☆俺はその過剰なエネルギーを持て余していたのだということに気がついた🐵この言葉のおかげで心が随分軽くなったものだ🐵エネルギーは外側に向かう場合と内側に向かう場合がある🐵ヘビメタはエネルギーが外側に発散し☆パンクは内側に収束するという説がある🐵過剰なエネルギーは破壊の衝動だ🐵パンクは破壊のエネルギーが自己に向かう🐵パンクとは自己破壊の音楽なのだ🐵だから☆パンクであり続けた連中はみんな若さの真っ只中で自壊してしまった🐵生き残ったパンクは本当はロックだったのだと後になって気がついた🐵ロックは本来サバイバルの音楽なのだ(ラブ&ピース)🐵ヘビメタは破壊のエネルギーを轟音に変えて四方八方に撒き散らしたあげく☆燃え残りがブルーズになる🐵ところがここにテクノという音楽が登場する🐵テクノはエネルギーをデジタルに変換するから熱くならない🐵テクノはクールな音楽だ🐵高校時代の俺はテクノで行こうと思った🐵熱くなんかなりたくない🐵高校を卒業したとき☆これでやっと猿山から解放されると安堵したものだった🐵だがしかし☆外の世界へ出てみると☆そこは単に大きな猿山に過ぎなかった🐵今の俺は巨大な猿山の片隅でロックとブルーズを聴いている🐵この小説を読んで☆高校時代の俺は星にも獣にもなりたくなかったのだなと思った🐵

 

 

 

星か獣になる季節 (ちくま文庫)

 

 

 

星か獣になる季節

 窓から見える景色はちょうど夕焼け。町が燃えているようにも見えた。

「なんだか火事みたいにみえるね」

 そのとき、ちょうど渡瀬はつぶやく。ぼくはなにも答えられなかった。森下ならなんて、答えるのだろう。「17歳は、星か獣になる季節なんだって。今日、やった英文読解にね、書いてあった」渡瀬の横顔も、火事みたいな光に染まっている。「人でなしになって、しばらく、星か獣になるんだって。大人だからってひどいこと言うよね」太陽が山を燃やしながら、ピンク色に変わっていく。 

 

この小説は、山城翔太が愛野真実に宛てた手紙という体裁になっている。愛野真実は地下アイドルで山城翔太は彼女のファンの高二男子だ。しかしこれは、ファンレターではなく、遺書と云った方がよい内容の手紙だ。愛野は殺人容疑で警察に勾留されたのだが、山城にはかわいいだけで努力しか取り柄のない凡庸なアイドルに過ぎない愛野が殺人犯だと信じることが出来ない。山城は他者には関心を持たないタイプで、愛野真実だけが生きがいというクラスの中では目立たない存在の少年だ。彼は愛野をディスることで自己の劣等感を晴らそうとしている。そして、その不純さを自覚している。彼のクラスにはもう一人、森下という愛野ファンがいる。イケメンの森下はクラスの人気者で山城とは対照的なキャラをしている。「努力も才能だよ」という森下は愛野を純粋に偶像として崇拝している。二人は交友関係が無かったのだが、事件をきっかけに急接近し、愛野の無実を「証明」するために協力し合うことにする。一人は信念を持って、もう一人は半ば巻き込まれるようにして。小説と犯罪とは親和性が高い。小説が人間を描くものである限り、人間性の究極の様相である犯罪、特に殺人を描いた歴史的名作が多いのは当然のことと云える。これについて三島由紀夫は餅焼きの網の比喩を用いて、「法律はこの網であり、犯罪は網を飛び出して落ちて黒焦げになった餅であり、芸術は適度に狐いろに焼けた喰べごろの餅である」と説明している。この餅を焼く炎は「人間性という地獄の劫火」であり、その焦げ跡なしに芸術は成立しないのだという。三島の『金閣寺』は犯罪者への共感の上に成り立った作品なのである。森下が愛野を崇拝する純粋な気持ちは俺には分からない。アイドルに限らず他者を崇拝する気持ちが理解できない。俺は神すら崇拝していない。俺は全く純粋な人間の存在を信用出来ない。子供が純粋だというのは幻想に過ぎない。奴らは単に無知なだけだ。無知と純粋は別物だ。純水を作るには、不純物を含んだ水を熱して沸騰させ蒸気にし、蒸気だけを不純物が付着していない容器に収集して冷却しなければ得られない(実験室的にはイオン交換法や逆浸透膜法を使うがそれらも簡単ではない)。純粋とはそれだけ手間とエネルギーがかかるものなのだ。そして、何か別のものが少しでも混ざってしまえば、それは最早純粋ではなくなる。密閉せずに純粋を保つことはほとんど不可能だろう。ところが三島由紀夫は、「始めからよごれる事の純潔さは本当の純潔さではない」と云う。現実世界においてどんなに俗にまみれてもどうしても汚れることのできない「ある一つの宝物」、それが芸術家の本能、つまり、「詩人の本能」とよばれるものだというのだ。三島は芸術家が全く純粋な人間だと云っているわけではない。精神のコアとなる部分(魂)が純潔を保ち得る存在が芸術家だと云っているのだ。では、なぜ芸術家の魂が純潔を保ち得るかというと、彼らの魂は常に「人間性という地獄の劫火」にさらされているからだ。焔には浄化作用がある。一歩間違うと黒焦げになってしまう危険があるが、その一歩を踏み止めるのがミューズの力であり、その一歩を踏み出させようとするのがデモーニッシュ(Dämonish)な力なのだ。その両者のせめぎ合いの中で劫火にさらされ続けているのが詩人の魂なのである。森下は詩人なのだ。愛野真実は森下のミューズだったのだ。ところが、ミューズは汚れてしまった。だから、森下はデーモンに魅入られて地獄の劫火に包まれてしまったのである。思春期の「内面のあらし」は芸術家の「美しい狂熱」に似ている。山城は主体性のない自我の弱い少年だった。彼は星にも獣にも何者にもなれなかった出来損ないだ。彼はせいぜい歪な小惑星だった。モテナイ君が女子に話し掛けられただけで好きになってしまう所とかリアルで泣けてきた。それにしても、「愛の真実」とは何だろうか。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を二度読みして、つくづく思ったのだが、俺には「愛」という曖昧な概念が分からない。「愛の真実」が簡単に説明できるならば、こんなにたくさんのラブソングがあるはずもない。ここから先は小説の内容に踏み込まないと書けないので、そのつもりで読まれたし。

 

 

正しさの季節

 昔、読んだ英文だったか現代文だったかで、17歳は人でなしになるんだって読んだ。人でなしになって、星か獣になるんだって。今になって、2年が経って、あいつは星で、あの子は獣だって思える。自分のことだけは、今でも少しもわからない。

 

この小説は冒頭に「8月14日 晴れ(東京は雨)」と書かれていて、長い日記という体裁になっている。本書に収められた二編の小説はそれぞれ独立しているが密接に関係している。この小説には「星か獣になる季節」から二年後の出来事が描かれている。登場するのは、この日記の筆者、つまり、語り手である渡瀬明という女子大生と浪人生の青山、典型的ドルヲタの岡山の三人だけである。三人とも前の小説の登場人物で、渡瀬と青山は山城と森下の元クラスメイトだ。渡瀬は高校時代は青山のことが好きだった。渡瀬の親友だった田江田が前の事件で殺されている。岡山は愛野真実つながりで森下と接点があった。岡山の妹が前の事件で殺されている。青山は、その連続殺人事件の犯人である森下の小学生時代からの親友だった。青山は週刊誌のインタビュー記事で森下にも良い面があったことをアピールしていた。つまり、この小説は、殺人事件の加害者の関係者と被害者の関係者と被害者と加害者の両方の関係者の三者の立場の違いに関する話なのだ。三島由紀夫は小説と犯罪の関係について、次のように言及している。

世間ふつうの判断で弁護の余地のない犯罪ほど、小説家の想像力を刺戟し、抵抗を与え、形成の意欲をそそるものはない。なぜならその時、彼は、世間の判断に凭りかかる余地のない自分の孤立に自負を感じ、正に悔悟しない犯罪者の自負に近づくことによって、未聞の価値基準を発見できるかもしれぬ瀬戸際にいるからである。小説本来の倫理的性格とは、そのような危機にあらわれるものである。

三島由紀夫「小説とは何か」より

つまり、犯罪の被害者への同情は世間に任せておけばよいと三島は云っているのだ。安直なヒューマニズムはワイドショーなり週刊誌なりにやらせておけばよい。この小説の岡山はキモヲタ過ぎる。その被害者面がマジでウザくて全く同情出来ない。作者は意図的にそういう人物を描いている。青山も心が傷ついたという意味ではこの事件の被害者の一人だと云ってもよいだろう。彼は他人から同情されることは少ないだろうが、彼もまた事件を一生背負っていかなければならないのだ。このような事件の影響は、直接の被害者だけでなく周囲の人間にも波及していくものだ。渡瀬は思慮深く冷静な性格をしている。彼女は被害者とも加害者とも比較的近い関係だったが、表向きは立ち直りが早かったようにみえる。彼女は常に公正でありたいと願っているように思われる。だから、「正しさ」に敏感なのだろう。17歳の時、彼女が星にも獣にもならずに大人と対峙しようとしたことに共感を覚えた。

それはさておき、犯罪は、その独特の輝きと独特の忌まわしさで、われわれの日常生活を薄氷の上に置く作用を持っている。それは暗黙の約束の破棄であり、その強烈な反社会性によって、却って社会の肖像を明らかに照らし出すのである。それはこの和やかな人間の集団の只中に突然荒野を出現させ、獣性は一閃の光りのようにその荒野を馳せ、われわれの確信はつかのまでもばらばらにされてしまう。

三島由紀夫「小説とは何か」より

つまり、この小説の主人公は依然森下なのだ。この小説に登場する三人がとまどっているのは主人公が不在だからだ。この小説の中心にはポッカリと穴が空いている。渡瀬や他のクラスメイトたちはその穴から目を背けたのだが、青山だけは目を背けることが出来ないでいる。岡山はその空白が許せないでいる。穴に向かって吠えても虚しいだけだ。渡瀬は青山によって空白に目を向けさせられた。森下は殺人を犯したこと以外はいいやつだった、というのが青山の言い分である。青山は森下のことを親友だと信じていた。しかしながら、他者に対して平等な森下にとって青山は特別な存在ではなかった。他者を差別しないなら誰も殺すなよ。逆説的だな。無差別テロはそういうことか。神の視点だ。森下が他者に対して公平だったということは、単に他者に対して無関心だっただけかも知れない。その点において、森下は山城と共通点があると云えるが、山城には人殺しは出来ない。森下の心の闇は分からない。分かるはずもない。だから、デーモンに魅入られたとしか云いようがない。森下は悪だから殺人を犯したのではなく、殺人を犯したから悪なのだ。悪意がなくても人を殺すことは出来る。俺は今までに何回か人を殺したことがあるという夢を見たことがある。願望が夢に現れたのかと思ったが、筒井康隆の「夢──もうひとつの現実」を読んで、筒井氏も同様の夢を見たことがあり「過去の殺人」と名付けていることを知り、自分だけじゃなかったと安心した。人を殺したという感覚と捕まるかもしれないという焦燥は、それはそれは嫌なものだった。あの嫌な感覚が忘れられないので俺は人殺しが出来そうもない。もしかすると、無意識が自制のためにあんな夢を見せるのかも知れない。森下のような人間はそういう自制心の掛け金が外れてしまっているとしか思われない。たぶん、ただそれだけで人殺しはできる。人間はそういう恐ろしい動物なのだ。世間は凶悪犯罪が起きたとき、犯人の異常性を強調しようとやっきになるが、彼らはそれほどかけ離れた存在ではない。世間がそれを認めたくないだけだ。世の中に絶対的に正しいことなど存在しない。あなたの正義は誰のための正義なのか。正しさの基準は自分で作るしかないし、それは常に揺らぐものにしかならない。この小説は、岡山の立場と青山の立場のどちらが正しいのかということを問題にしているわけではない。両者がその立場に固執する限り、両者が歩み寄ることはない。青山が岡山を申し訳なく思う必要はない。正直云って、岡山のように被害者意識を押し付けて来られると不愉快だ。渡瀬は不注意な発言で彼を激怒させたが、俺ならわざと怒らせるなと思った。正論が常に正しいとは限らない。こういう小説を読むと自己の冷淡な性格が暴かれるから面白い。確かに、「間違いはだれかを傷つける」ものだ。悪意がなくても人を傷つけてしまうことは普通にある。正論であっても必ず誰かを傷つける。和やかな人間関係を築くためには、なるべく他者を傷つけないように気を配りたいものだが、人というのはどうしても他者を傷つけてしまうものなのだ。そこを気にしすぎるとキリがない。誰も傷つけない言葉なんてありえない。あるなら教えてほしい。この小説は、他者を傷つけても構わないと云っているわけではないし、森下のような犯罪者を擁護しているわけでもない。人は常に正しくはなれないし、場合によっては、相対的に正しくない立場を敢えて取らなければならないこともあるということを云っているのだ。人はいつか死ぬものだし、いつどういう死に方をするか分からない。だから、死に対して淡泊でありたいと思う。俺は肉親の死に対してもあまり悲しまない。そんな俺がこの小説を読んで最も心を痛めたのは、山城の母の心情を想像した時だった。だがそれもたぶん、傲慢なんだろう。

 

 

あとがき

青春を軽蔑の季節だと、季節だったと、気づけるのはいつだろうか。どこで、それに気づくんだろう。それは愚かさの象徴で、だからこそ、一番に懐かしい。

この小説を読んで、自分の「17歳という季節」を思い出してみたが、青春は傲慢の季節だった。たぶん同じようなことだろう。この小説に合わせて云うと、俺は星にも獣にもなりたくないと思っていた。「自分は違う」と思いながら群れている連中が気持ち悪かった。ランク付けなんか下らないと思っていた。あの頃はもがいていた。俺は斜め上を行こうとしていた。全然自信を持てなかった。かっこ悪かった。思い出したくもない。アホな季節やったな。

 

 

文庫版あとがき

ずっと、生きているつもりになっていたのかもしれない。でなきゃどうして、傷ついたり傷つけたり、繰り返していたんだろう。

17歳の頃、傲慢にも自分は感受性が強いと思っていたのだが、それは単に心が弱いだけだった。感受性の強さと心の弱さは別物だ。俺は自分の心の弱さが嫌で仕方なかったのだ。だから、多少のことで心が傷つかないように心を鍛えたものだった。つまり、俺は鈍感なのだ。「ひりつくような感覚に身を置き続ける」ことなんて、恐ろしくて出来ない。だから俺は、この人から目が離せないのだろう。

 

 

 

星か獣になる季節 (ちくま文庫)

星か獣になる季節 (ちくま文庫)

 

 

 

 

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