森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です

三島由紀夫の『文章読本』を読んだ

11月の読書録05ーーーーーーー

 文章読本

 三島由紀夫

 中公文庫(1973/08/10:1959)

 ★★★★

────────────────────

 

文章読本 (中公文庫 A 12)

 

美は珍奇からはじまって滑稽で終わる

 

 

 

私は、子供の頃から作文とか読書感想文とかが嫌いで、本を読むのは好きだが文章を書くのは苦手である。だからといって、今までに文章読本のような本を読もうと思ったことはないし、読んだこともない。従って、文章読本と題される本を読むのは今回が初めてである。なぜ今更このような本を読む気になったかというと、作家やブロガーを目指そうという気はサラサラなくて、三島由紀夫に今更ながら興味を持ったからに他ならない。

 

実際に読み始めてみると、本書は当時よくあったような「だれでも書ける文章読本」というようなものではなくて、「読む側からの『文章読本』という点だけに限定した」内容であると、第一章の「この文章読本の目的」に書かれてあって安心した。つまり、安易なハウツーものを読んだところで、いい文章が書けるはずがないということだろう。

 

三島によると、チボーテという人が小説の読者を二種類に分類していて、一つはレクトゥール(普通読者)であり、今一つはリズール(精読者)であるという。前者は「小説といえばなんでも手当たり次第に読み、『趣味』という言葉のなかに包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人」と定義され、後者は「その人のために小説世界が実在するその人」であり、「文学というものが仮の娯楽としてでなく本質的な目的として実在する世界の住人」であるという。

 

つまり、リズールとは「ほんとうに小説の世界を実在するものとして生きていくほど、小説を深く味わう読者」のことであり、「いわば小説の生活者」と言われるべき人なのだそうだ。そして本書は、リズールの達人とも言うべき三島由紀夫が、レクトゥールで満足している読者をリズールに導かんと意図して書かれたものなのである。作家になるための最低条件はリズールであることであり、リズールであっても才能がなければ作家にはなれないのだそうだ。

 

私は凡庸なレクトゥールに過ぎず、とうていリズールにはなれそうもないのだが、リズールの達人である三島由紀夫のご高説を承るに吝かでないので本書をありがたく拝読した。

 

第二章は「文章のさまざま」と題され、日本文学の歴史的経緯とその特質について述べられている。日本文学は日本語で書かれているのだから、まず日本語の成り立ちについて考えなければならない。また、現在が過去の延長線上にある限り、継承するにしても破壊するにしても、現代文学は古典文学を無視しては成立し得ない、ということだろう。

 

ここで著者は読者に「文学作品のなかをゆっくり歩いて」風景を楽しむことをすすめている。つまり、文章を味わえということである。早飯の大食いで十分に味が分かるものか、ということだろう。また、「文章の味には、味わってわかりやすい味」もあれば、「十分に舌の訓練がないことには味わうことができない味」もあるという。ジャンクフードやファーストフードばかり食べていて本物の味が分かるものか、ということだろう。要するに、美味しくてしかも栄養があるような文章が「いちばんいい文章」なのである。

 

まったく仰るとおりなのだが、私としてはそこそこ美味しいものがいただければそれで満足である。そこまで食通になりたいわけではない。日本料理の微妙な味わいやフランス料理のソースの複雑な味わいなどは余程舌を訓練しなければ分かるものではない。ただ、「ゆっくり歩いて風景を楽しめ」ということは、せっかちな性格でゴールに辿り着くことだけを目的にしてしまいがちになる私には肝に銘じておくべきことであろう。

 

結局、文章を味わうということは、長い言葉の伝統を味わうということになるのであります。そうして文章のあらゆる現代的な未来的な相貌のなかにも、言葉の深い由緒を探すことになるのであります。それによって文章を味わうことは、われわれの歴史を認識することになるのであります。

 

第三章からは、短編小説の文章と長編小説の文章との違い、小説中の会話の文章と戯曲の文章との違い、評論の文章や翻訳の文章、更に、様々な文章上の技巧について、リズールの達人である三島由紀夫が厳選した古今東西の名作から極上の文章がアラカルトで次々と供される。読者は出された皿を一口ずつ試食していくという趣向である。これはよく言われることだが、「料理の味を知るには、よい料理をたくさん食べることが、まず必要である」というわけである。何事もよい経験を積むことが肝要なのだ。従って、一皿ずつ翫味していかなければならない。本書こそ、時間をかけて読むべき本なのである。

 

こうして紹介される各文章について、三島はどこがどのように美味しいのかその味わい方を懇切丁寧に解説してくれているわけだが、その博識の深さと感性の鋭さ、及び、その美意識の高さに圧倒される。これだけ深く読み込むことが出来れば、本を読むのが楽しくて仕方ないだろうと思う反面、これだけ感覚が鋭いと、かえって苦痛も大きいのではないかとも思われる。

 

まったく、こんなブログに薄っぺらい感想をダラダラと書き連ねるのが恥ずかしくなるというものである。などということはこれっぽっちも思わない。そもそも格が違いすぎる。比較するのはおこがましいというものである。私は傲慢な人間ではあるがそこまで身の程知らずではない。凡庸な人間は凡庸な人間なりに胸を張って文章を書けばよいのである。

 

それはともかく、私は谷崎潤一郎の文章が好きであると再認識した。梶井基次郎の短編集を久し振りに読みたくなった。フランス文学写実主義は相変わらず面倒臭そうだ。プルーストの『失われた時を求めて』などは昔から興味があるが、読み通す自信がないので未だ読んでいないし、将来においても読むことは恐らくないであろう。

 

9月に読んだ『小説読本』は、三島由紀夫の作家としての小説観や創作に対する姿勢について書かれた文章が多く収録されていたが、本書の方は、読書家としての三島の小説観や美意識に基づいて書かれていて、それが小説家としての三島の根底をなしているという印象を受けた。最終章の第八章は「文章の実際──結語」と題されていて、小説家としての三島由紀夫が顔を出す。最後の文章がまさに三島由紀夫である。

 

文章の格調と気品とは、あくまで古典的教養から生まれるものであります。そうして古典時代の美の単純と簡素は、いつの時代にも心をうつもので、現代の複雑さを表現した複雑無類の文章ですら、粗雑な現代現象に曲げられていないかぎり、どこかでこの古典的特質によって現代の現象を克服しているのであります。文体による現象の克服ということが文章の最後の理想であるかぎり、気品と格調はやはり文章の最後の理想となるでありましょう。

 

 

 

 

文章読本 (中公文庫)

文章読本 (中公文庫)