『ブラタモリ』#85高知(1/3)
~高知の町はなぜ龍馬を生んだ?
近江(銅像が桂浜にあるということは、龍馬さんは桂浜生まれ?)
────────────────────
今回は高知に来ております。
有名な桂浜。
近江ちゃんは高知生まれ。
東京育ち。
小学生の頃は夏休みに帰省すると真っ黒になるまで遊んでいたとか。
プロフィールで読んだ記憶がある。
ダンモでビータ。
知らね。
近江「広いですね~」
漂流して伊豆諸島の鳥島に流れ着いた人はおりましたなあ。
ですよねえ。
台座の高さが8.2m、像の高さは5.3mだそうな。確かにでかいな。
長崎の風頭公園の坂本龍馬像は、台座が1.5m、像が3.2m、総高4.7mだそうな。
ちなみに、上野の西郷どんは像の高さが3.7mだそうな。
坂本龍馬「ちょっと太ったかな~」
短銃を仕込んでいるんじゃなかったっけ?
懐中時計だったかな。うろ覚え。
今回のお題。
今回の案内人。高知痕跡学会会長(会員1名)でもある。怪しげ~。
このイメージで言ってないか?
天保6年11月15日(西暦1836年1月3日)生まれ。
慶応3年11月15日(西暦1867年12月10日)没。
11月15日前後には、桂浜の龍馬像の横に展望台が設けられて、龍馬像の目線の高さで眺望を見晴らすことができるというイベントがありましたな。
草彅「そして、幕府を倒す薩摩や長州の動きを後押ししました」
タモリ「いう事ですか? テーマは」
龍馬が日本を動かすことのできる英雄になったのは、江戸時代の高知の町づくりと、その町を成り立たせる地形が関係していると主張する案内人。
近江ちゃん、半信半疑。
草彅「今日は高知でブラタモリ!」
桂浜から高知城へ移動。
こいつか。仲間由紀恵は千代ね。2006年か。
龍馬伝は2010年か。
天守から東側を見る。
北側は間近に四国山地が。
四国山地の最高峰は愛媛県にある石鎚山で標高は1982㍍。近畿以西の西日本最高峰。
ちなみに、中国山地の最高峰は、兵庫県と鳥取県の県境にある氷ノ山で標高は1510㍍。全体的に、中国山地よりも四国山地の方が高い。
四国山地の南側と北側とでは、気候も風土も飲酒量も全然違うという話。
西側を見る。
そして、南側も山。
桂浜は見えない。
なぜか謝る。
高知の城下町は山に取り囲まれた場所にある。
坂本龍馬はどこで生まれた?
近江ちゃん、興味なかった?
上町一丁目
関係がある?
なんとかつなげていきたい?
無理矢理かい!
タモリさんが案内されたのは龍馬の生家とは反対側の商店街。
帯屋町。壱番街。クジラが泳いどる。
ダンモ(➡早稲田大学モダンジャズ研究会)のビータ(➡演奏旅行)で高知に来たことがあるけど記憶に残っていないタモリさん。
なんと、案内人もダンモだったとは。
タモリさんの15年後輩だそうな。ということは、昭和35年生まれくらい?
商店街から脇道へ。
居酒屋どん。
図星?
橋を埋め立てたため盛り上がっている。
草彅「ここに堀があったんです」
さらに歩いていくと、堀を埋め立てた跡が公園になっていた。
幅十間。
ほう。
堀の内側は、山内一豊に従って土佐入りした掛川衆や山内衆出身の上士の居住地だった。
外側は、長宗我部旧家臣や町人出身の下士(郷士)の居住地だった。
上級武士が城の近くに屋敷を持つのは、自然と言えば自然。防御のために堀を作るのも自然と言えば自然。ただ、土佐の場合は上士と下士の間に複雑な感情があったようだ。
つながる?
坂本家の場合は、才谷屋という商家の分家で裕福な家庭だった。町人出身の郷士だった。
かなり差別的だったそうな。
幕末には、いろいろあったそうな。
文久元年(1861)の井口村刃傷事件からの土佐勤皇党のことかな。
坂本龍馬25歳の時の事件でした。
土佐勤皇党(土佐勤王党)のほとんどは郷士や庄屋だったそうな。
この前、浦島太郎が助けた亀はオスかメスかという今更なクイズを出された。
ウミガメが陸に上がるのは産卵の時だけだものな。
無理矢理ぽいなあ。
次の記事へと続く
📄この記事の前