漱石鏡子夫妻まとめ(6)
🐱今夜の土曜ドラマ「夏目漱石の妻」第3回は漱石の養父塩原昌之助(竹中直人)と荒井伴男(満島真之介)がキーパーソンになっているようだが、二人ともかなりの食わせ者なので竹中直人と満島真之介がどのように演じるか楽しみである。
🐱今回は、今夜の放送に合わせて「吾輩は猫である」発表後の漱石について簡単にまとめてみようと思う。それでは漱石38歳の年から。
明治38年(1905)
◾1月「吾輩は猫である」を雑誌「ホトトギス」に発表、世評を高める。
※以後、「猫」の続編や短編を「ホトトギス」をはじめ各誌に発表する。
◾4月、夏目家に泥棒が入る。
※このエピソードが『吾輩は猫である』第5章に使われる。夏目家にはよく泥棒が入ったらしい。
(🐱ドラマでは第2回で使われた)
◾次第に、教師を辞めて創作に専念したい気持ちが高まる。
◾10月『吾輩ハ猫デアル』(上篇)刊行、二十日間で売り切れる。(以下刊行が続くが省略する)
◾12月14日、四女愛子出生。
※出産時に産婆が間に合わなくて漱石自ら赤子を取り上げている。漱石は愛子を一番かわいがったそうだ。
◾年末より多くの門下生が出入りする。
明治39年(1906)
◾4月、「坊つちやん」発表。
今の世に神経衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒か、さあらずば二十世紀の軽薄に満足するひょうろく玉に候。
もし死ぬならば神経衰弱で死んだら名誉だろうと思う。時があったら神経衰弱論を草して天下の犬どもに犬であることを自覚させてやりたいと思う。
(6月7日鈴木三重吉宛書簡より)
◾9月、「草枕」発表。
◾9月16日、岳父中根重一没(享年56歳)
※漱石と中根家の間には、かなり確執があったようで漱石は葬儀に参列していない。葬儀当日は大学も休んで、ずっと家に居たらしい。
◾10月から「木曜会」始まる。(門下生との談話会)
◾12月27日、本郷区西片町十ろの七号に転居。家賃27円。(現・文京区)
明治40年(1907)
(3月31日、一高を、4月22日、帝大を辞職)
◾3月28日から4月12日まで京都大阪を旅行。
◾4月より朝日新聞社員になる。月給200円。
◾6月5日、長男純一誕生。
※初めての男の子で漱石はことのほか喜んだそうだ。純一は夏目房之介の父。
癇癪が起こると妻君と下女の頭を正宗の名刀でスパリと斬ってやりたい。
僕の妻は何だか人間のような心持ちがしない。
(6月21日鈴木三重吉宛書簡より)
※実際、鏡子の留守中、下女の頭をポカポカ殴り下女が逃げ出したことがある。ついでに筆子の頭もポカリとやって、筆子が号泣している所に鏡子が帰宅し呆然としたことがある。
◾6月23日より10月29日まで「虞美人草」を「朝日新聞」に連載。
※神経衰弱はおさまったが、胃病に悩み始める。
◾11月下旬、荒井某が「坑夫」の素材を売り込み、しばらく書生として住み込む。
或日私の所へ一人の若い男がヒョッコリやって来て、自分の身上にこういう材料があるが小説に書いて下さらんか。その報酬を頂いて実は信州へ行きたいのですと云う。
[略]
で、財布から幾らか掴み出して、これで行けるかと訊くと、行けますと云う。
(明治41年4月15日『文章世界』)
※ドラマ原作『漱石の思ひ出』には、もっと生々しい金の話と荒井伴男の本性が書かれている。
※当時の東京日日新聞の記者の取材によると、荒井某は中根伴男(当時22歳)といい、色黒く逞しそうな青年で、荒井家の養子になり、秋山某女(19)と恋に落ちたが失恋し、ショックで学校を退学し、四年程各地を流浪した末、夏目家に転がり込んだそうだ。(東京日日新聞・明治41年8月19日、立松和平「足尾から『坑夫』を幻視する」より)
※荒井伴男は、翌年4月3日まで出入りしていたらしい。
◾12月20日、10月から飼い始めた文鳥死ぬ。
※この年から鏡子の従妹山田房子が夏目家に同居し、4年後夏目家から嫁いでいる。
※夏目家は子沢山だし、夫は気難しいし、たまにキレてお手伝いをクビにするし、門下生は大飯食らうし、厄介な客はやって来るし、鏡子夫人も大変なのだ。
明治41年(1908)
◾1月1日より4月6日まで、「坑夫」を「朝日新聞」に連載。
※島崎藤村の『春』が連載される予定だったのが間に合わず、穴埋めに急遽連載が決まった。当初、漱石はこの素材を使うつもりは無かったが、そういう事情で使う気になったようだ。結果的にルポルタージュ色の強い異色の作品が出来上がった。立松和平によると、作品の方針が定まらず書きながら考えている形跡が読み取れるそうだ。
◾3月21日、森田草平と平塚明子(らいてう)の心中未遂事件(「煤煙」事件)が起こり、4月10日まで森田をかくまう。
◾6月13日から21日まで、「文鳥」を「大阪朝日新聞」に連載。
◾7月25日から8月5日まで「夢十夜」を「朝日新聞」に連載。
◾9月1日より12月29日まで、「三四郎」を「朝日新聞」に連載。
◾9月13日、「吾輩は猫である」のモデルとなった猫死亡。猫の死亡通知を友人諸兄に出す。
辱知猫義久く病気の処、療養不相叶、昨夜いつの間にか裏の物置のヘツツイの上にて逝去致候。埋葬の義は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候。但主人『三四郎』執筆中につき御会葬には及び不申候。
此の下に稲妻起る宵あらん
◾12月17日、次男伸六出生。
明治42年(1909)
◾1月1日から3月12日まで、「永日小品」を発表。
◾3月頃から11月頃まで、養父塩原昌之助に金を無心される。
※この件については『道草』に詳しく書かれている。『道草』では時期を変えて描かれていて、必ずしも事実と一致しないが当時の漱石の心情がよく描かれていると思う。
『道草』については前の記事をご覧下さい。
◾6月27日より10月14日まで、「それから」を「朝日新聞」に連載。
◾9月2日から10月17日まで、満州・朝鮮旅行。
明治43年(1910)
◾3月1日より6月12日まで、「門」を「朝日新聞」に連載。
◾3月2日、五女ひな子出生。
◾6月18日、胃潰瘍のため入院。7月31日、退院。
◾8月6日、修善寺温泉に転地療養に赴くが、病状悪化。24日、吐血して三十分間人事不省に陥り、危篤状態になる。
🐱第3回でどこまでやるのか分からないが、「修善寺の大患」が第4回の山場になるだろうと思うので、今日はここまでにしよう。🐥
朝日新聞社入社直後(明治40年5月)
📄関連日記
(漱石幼少期から青年期年表)
(明治36年から明治37年までの年表)
(漱石晩年の年表)
明治43年正月 右より愛子(4)、栄子(6)、恒子(8)
『新潮日本文学アルバム 夏目漱石』より