森の踏切番日記

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『応仁の乱』(呉座勇一著)を読む

3月の読書録05ーーーーーーー

 応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱

 呉座勇一

 中公新書(2016/10/25)

 1703-05★★★☆

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室町幕府については、足利氏が、細川氏、畠山氏、斯波氏など足利一門の親分で、武家の中で最も勢力があるのが足利一門だから足利組の組長が武家の親分であるという理解をしている。管領というのは、要するに若頭のことだと理解している。室町幕府は家族的集団というイメージである。親分の力が強ければ一家は安泰だが、親分の求心力が低下すれば組内がごたごたするのは必然で、応仁の乱は様々な人間の利害がぶつかり合った上に組長の跡目争いが加わった仁義なき抗争だと理解している。そんなイメージを持ちながら本書を読んでみたのだが、全体の印象としては、こういう見方もあるかなあという感じである。ややこしい話なので、一度通読しただけで全てを把握するのは難しい。ノートを取りながら再読したいところだが、そこまでの時間も興味もないので、今回は取り敢えずの感想を書くに留めたい。

 


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室町時代守護大名の配置図でかねてから気になっていたのが、大和国興福寺である。それだけ大和国内における興福寺の力が大きかったということだろうが、その実態については知らなかった。本書は、興福寺僧の経覚の『経覚私要鈔』と尋尊の『大乗院寺社雑事記』を中心史料として採用し、室町時代大和国内の情勢について詳しく論考していて興味深かった。ひと言で云うと、ややこしすぎる。ここにも、大乗院(九条家系)と一乗院(近衛家系)の派閥争いがあり、国人に相当する「衆徒・国民」がいて内部抗争がある。そこに畠山氏が絡んできて応仁の乱につながるわけである。つまり、本書は大和国から見た応仁の乱という視点で描かれている。

 

◾従来の説明では、我が子(義尚)を次の将軍にと願う日野富子が義視の排除を図って山名宗全に接近したとされる。本書では、「義視の妻は富子の妹であり、両者の関係は必ずしも悪くなかった」とあるが、根拠が示されていないので納得がいかない。姉妹だからといって関係が悪くないとは限らないだろう。あからさまに敵意を見せなくても内心では呪詛することだってあるではないか。我が子が次の将軍になるに越したことはないと思っていたと考えるのが自然だと思う。文正の政変前の時点では、日野富子はあからさまには排除に動かなかったという程度のことではないだろうか。文正の政変後に山名宗全と提携したのは、義視の将軍宣下が現実味を増したからだろう。

 

◾本書の終章に、「細川氏と山名氏との対立を過度に強調するのは誤り」であり、「細川氏と山名氏の激突を宿命的なものと見るべきではない」とあるが、本書を読む限り両者の衝突は必然的に思われる。本書によると、細川勝元山名宗全と提携したのは、畠山氏を押さえ込むためだったという。山名宗全の方は、明徳の乱で失った山名氏の領国を回復させるという野望があったと思う。山名氏は新田系で外様であるし勝元の山名宗全との提携は、諸刃の剣だったのではないだろうか。宗全が中央権力に挑戦し続ける限り両者の衝突は避けがたいものに思われるのだが。

 

◾著者は、御霊合戦で「一対一の戦いで政長が敗れたのならば、細川勝元も結果を受け入れただろう」としているが、意味のない仮定であり蛇足だと思う。応仁の乱が嘉吉の変以来の政治過程の矛盾の結果引き起こされたものならば、細部の問題ではないのでは。

 

応仁の乱の直接的な要因が畠山義就の上洛にあるというのは、そのように理解していたので納得のいく指摘である。事態を決定的に悪化させたのが、山名宗全の御霊合戦への介入であるという指摘も同様である。宗全の仁義なき戦いが勝元の顔に泥を塗ったのである。

しかし、親分の力が強ければ、そもそも子分が揉め合うことも無いわけで、義政の優柔不断な姿勢も大きかったと思う。

 

◾「戦争は始めるのは簡単だが終わらせるのは難しい」と言ったのが誰だったか忘れてしまったが何かで読んだことがある。応仁の乱もまさにそのような戦争だったと思う。応仁の乱が長引いた理由は色々求められるだろうが、両軍の戦力差がさほど大きくなければ、戦争というのは長引くものなのだろう。両軍の多数派工作の結果、様々な利害が絡み合い出口が見えなくなったということもあっただろう。

 

◾細川氏と山名氏が諸将に先駆けて講和できたのは、本書にある通り、「不倶戴天の敵とは言えない」からだろうが、山名宗全の気力が衰えたからという説も納得できる。細川勝元山名宗全も最後は疲れ切って過労死したような感じである。

 

◾幕府の権威が決定的に失墜したのは、明応2年(1493)の明応の政変であり、明応の政変からが戦国時代だという説は納得できる。地方の北条早雲よりも中央の政変の方が影響が大きいと思う。嘉吉の変の帰結が応仁の乱であり、応仁の乱の帰結が明応の政変という流れは、この時代を理解しやすくしてくれると思う。

 

山城国一揆についても触れられているが、本書にある通り、細川政元黒幕説は無いと思うが、全く関与しなかったとも考えにくい。「国中三十六人衆」からすれば、政元とのパイプがあることが重要だったと思う。山城国一揆の崩壊は、細川政元明応の政変後は中央政界のことで頭がいっぱいで南山城のことまで頭が回らなかったことも一因であるという説も魅力的だと思う。本書にある通り、国人達の自立性・主体性を過度に軽視すべきでは無いが、国一揆内部の矛盾も考察しなければならないし、過大評価もすべきでは無いと思う。

 

◾本書には、応仁の乱後守護在京制が徐々に崩壊し、明応の政変で完全に崩壊することによって京都の住民が激減し市域街も大幅に縮小し、京都の荒廃が進行したように書かれている。京都人からすれば、在京田舎武士達は単なるよそ者である。京都人はよく「前の戦争言うたら応仁の乱のことや」というようなことを言うが(幕末の鳥羽・伏見の戦いは京都人にとっては洛外)、これは、応仁の乱以後、京は公家・武家の都から町衆の街へと変貌を遂げたという自負から来るものだと思う。応仁の乱で堺に疎開していた大舎人の織手師たちは、そこで中国の模様織りの技術を摂取し、それを乱後京都に持ち帰って西陣の地で独特の紋織法をあみだした。それが西陣織だと言われている。朝廷の下級官吏の子孫や下京の町衆にとっては京の都が故郷なのである。彼らは応仁の乱後の荒廃した都から町衆の街を作り出したのである。

 


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洛中洛外図屏風・上杉本 右隻


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洛中洛外図屏風・上杉本 左隻

 

 

◾他にも、室町時代の守護と国人の関係など興味深い記述があったが長くなるのでこのくらいにしておこう。大和国内の情勢などは余り馴染みが無いので、一度通読しただけでは十分に読み込めなかったと思う。機会があればノートを取りながらじっくり再読したい本である。

 

 

 

応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)

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