森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

『城塞』中巻再読・冬ノ陣

『城塞』再読(7)

🐱司馬遼太郎『城塞』中巻を再読しております。今回は冬の陣の戦況を振り返りたいと思います。だんだん面倒臭くなってきたので、ざっくりといきます。


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※11月18日、家康、秀忠と茶臼山で落ち合う。家康は、

「まともに攻めれば、まず五年はかかるであろう」

「それゆえ、わしは講和をしたい」

などと言いながら、秀忠を煽って、気負い立たせる。

家康はこの大坂城攻撃にあたって、秀忠を鬼将軍に仕立て、世間にもそのような印象をあたえようとした。

秀忠が武断主義をとるのに対し、家康はそれとは別個に、あくまでも豊臣家を救おうという寛仁の態度を持し、講和方針をとってゆこうというのである。

家康の目的はただひとつ、秀頼を殺すことにあった。

そのためには、大坂城の防御を弱めなければならない。

それには、大魔術が必要であろう。

🐱魔術を使うには、悪魔にならねばならぬであろう。

 

 

◾11月19日、木津川口の戦い。

蜂須賀至鎮、浅野長晟、池田忠雄の軍勢三千が、大坂城から海上の出口にあたる木津川口の砦を攻め、これを奪う。大坂方は八百の兵で守っていたが、指揮をすべき明石全登大坂城本丸にいて不在だった。この日は伝法川口の大坂方の検問所も徳川方に奪われている。これにより、大坂方は海上輸送路を絶たれる。

😽『真田丸』では、オフロスキーだもんな。

 

 

◾11月26日、鴫野・今福の戦い。

大坂城の東側は、猫間川、平野川、大和川が天然の要害になっていた。しかも、大坂方は堤を切って水田に水を流し込ませ、堤に柵を設けて大野治長麾下の将兵が守っていた。

※鴫野に上杉景勝軍が、今福に佐竹義宣軍が夜明けを待って攻撃を開始。東軍に押された味方が後退していくのを見た木村重成は、今福の柵を占領した佐竹軍を反撃、瞬く間に佐竹軍を押し戻す。さらに、後藤又兵衛が来援し、佐竹軍に突進した。

※大坂方は、敵将の渋江政光を鉄砲で倒し、混乱する佐竹軍を蹴散らし、戦線を押し戻した。押し込まれた佐竹軍は義宣自ら太刀をふるって奮戦する事態に陥ったものの、上杉軍や榊原隊が救援に駆けつけたため、重成・又兵衛は撤収を命じ、奪還した柵まで引き返し、そこを守備した。木村重成は華々しく初陣を飾ったのだった。

「大坂おそるべし」

🐱ここは、木村重成後藤又兵衛の活躍が見せ場であるな。大河ドラマ真田丸』では、細かくやるかなあ。どうだろう?

 

※『城塞』では秀頼は、乳兄弟である重成と「牢人ながらいかにも頼もしげな」又兵衛がお気に入りで、何かと言えばこの二人をそばに呼んでいる。淀殿は、秀頼が又兵衛や幸村たち牢人衆に感化されるのが気に入らない。

大野修理は「牢人のさしずなどは受けない」と思っている。牢人衆も大野修理を信用していない。

 

 

◾11月29日、 博労淵の戦い。野田・福島の戦い。

※博労淵の砦は、蜂須賀至鎮らの軍勢の攻撃を受けると、七百人ほどいた守備兵は次々逃走し、瞬く間に陥落する。指揮官たる薄田隼人正兼相が、前夜から神崎の遊女のもとに遊びに行っていて、不在であったのだ。

※『城塞』では、

「隼人正は」

と、淀殿はこのときほど怒ったことはない。

「あれは橙武者です」

と、淀殿が言ったことになっている(橙は正月の飾りにしか使えない役立たずという意味)。 薄田は、淀殿に呼びつけられ、侍女たちが居並ぶ中平伏させられ、侍女たちの嘲笑を浴びせられるという罰を受けている。 

😽なんか、精神的にダメージの大きい罰だな。お局様のパワハラ だな。会社とかでもありそうだな。

 

※野田・福島の砦も九鬼守高らの軍勢によって陥落している。大坂城周辺の砦は全滅し、城東方面も徳川方が占領し、徳川方による包囲網が完成する。(下図)

 

🐱そして、いよいよ真田丸の攻防戦が始まるのであった。🐥

 


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※図の右上の佐竹義宣の右側が、真田信吉・信政

 

 

 

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『城塞』中巻再読・城の中の人たち

『城塞』再読(6)

🐱司馬遼太郎『城塞』中巻を再読しております。今回は、淀殿・秀頼に仕える主な家臣たちについて、簡単に振り返っておこうと思います。

 
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片桐且元(市正)

※弘治2年(1556)生まれ 。片桐家は元々は浅井家に仕えていたようだ。16歳で、秀吉の直参となり、「助作」と呼ばれて成人し、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられるが、一番地味で目立たない存在である。小牧・長久手の陣から九州および小田原征伐、朝鮮の役にも従軍している。従五位下東市正に任ぜられ摂津茨木一万二千石の城主となり、幼い秀頼の傅役を仰せつかる。 「虎」こと清正や「市」こと正則などと比べると、あまり出世していない。この人は作事奉行や検地奉行などを務めたりしていて、どちらかといえば文治派である。関ヶ原の戦いでは西軍についたが、家康に接近して戦後加増されている。利用価値ありと見なされたのだろう。家康の後ろ盾で豊臣家の家老職となるが、淀殿近辺からは警戒され、家康の悪謀に翻弄されてしまう。大坂夏の陣直後、 元和元年(1615)5月28 日没。肺病を患っていたと云われるが心身ともに疲れ果てたのだろう。

🐱家康が、この事務能力は高いが地味で平凡なおっさんに目を付けたところが凄いな。

 桐一葉おちて天下の秋を知る

 
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片桐且元

 

 

大野治長従四位下修理大夫

大野治長は永禄12年(1569)生まれ。大野三兄弟の母大蔵卿局は、茶々が北近江の小谷城にあった当時からの乳母であったので、茶々と治長は乳兄弟の関係にある(茶々の生年は、はっきりしないが同い年か茶々がちょっと年上)。天正元年(1573)8月、小谷城が落城。お市の方柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄城に移り住んだ際も従っている。茶々と運命を共にしてきたと云っても過言ではないだろう。

※そんなこんなで、「あの二人、実はできてんじゃね?」と、疑惑を持たれて「秀頼の父親実は治長説」がある。隔世遺伝で秀頼は浅井長政似という意見もある。

※『城塞』では、実戦経験に乏しく器量が小さく、母親の縁故で出世したと周囲から思われていて人望がないように描かれている。

修理は秀吉の当時、三千石の旗本にすぎなかった。しかしいまでは淀殿の乳母の子であるというだけの理由で、淀殿はこの城内のどの男よりも修理を信頼している。

(修理)「私の主人は御母君と秀頼さまだ。主人のお気の休まるようにここは致さねばならぬ」

修理は、淀殿を言いくるめてしまって大戦略をたてるような男ではなく、淀殿の気持を安らがせるということを思考の重要な因子にしつつ、事を処理していく男らしい。その処理の仕方については、かれはなかなか有能であった。

淀殿にとって修理はあくまでも乳母の子で、それだけのことであった。まさか淀殿は、この修理が、大坂勢をひきいて家康と雌雄を決すべき戦いをしようとは、どうにもおもえない。

大野修理は東西の手切れ前後までは、なかなか頑張っていて、諸国に書状を出したり牢人や兵糧を集めたりしていて、幸村も、大野修理のいかにも襟度のひろそうな感じに安堵しているのだが、城内の開戦準備が進むとともに余裕がなくなってしまう。

修理はそういう軍事的緊張の重さに脆い神経をもっているのか、人変わりしたような印象をひとびとにあたえはじめた。 表情がつねに暗く、瞳に落ちつきをうしない、  貌(かお)がひとまわり小さくなり、毎日喋っている言葉の大半は、物事を創りあげるための言葉でなく、愚痴であった。

でもって、母親のそばにいると安心するのか、淀殿の御殿に入り浸りになる。淀殿淀殿で気休めのため修理を夜中でも呼んで質問するので、「あの二人、怪しくね?」と噂が立つようになる。

😽司馬は、石田三成のことを「癇の高い小型犬のような男」と評しているが、それならば大野治長は、困り顔の座敷犬であるな。

😽大河ドラマ真田丸』では、茶々は「幸村以外の牢人は信用出来ない」と言っていたが、『城塞』の淀殿は、身内以外は誰も信用していない。『真田丸』の茶々も、実は身内以外は誰も信用していないのではないかと思った。

 

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 😽大野治長

 

 

◾大野治房(主馬)  

※治長の弟。主戦派で兄と対立する。

😽『真田丸』では、キックボクサーにしか見えないな。まだ、一言もセリフ無いよな。

 
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😽主馬と又兵衛のタイマンとか見てみたい。

 

 

◾大野治胤(道犬斎)

※ 治長・治房の弟。『城塞』では、実は年下の叔父としている。関ヶ原の敗戦の後、淀殿に取り入り、「あの二人、できてんじゃね?」という噂が立ち(大野修理説もある)、大蔵卿局が追い出したのだが、東西手切れの後大坂城に戻ってきている。犬好き故に「道犬斎」と名乗ると云う。

🐱「橙武者」といえば薄田兼相のことだが、この人も「橙武者」と呼ばれたらしい。

🐱さらに下の弟に治純がいるが、徳川家に人質に出され、そのまま徳川家に仕えている。

 

 

木村重成正四位上長門守)

※いろいろ説があるようだが、ここでは文禄2年(1593)生まれとしておく。かつて六角氏に仕えた佐々木三郎左衛門の子で、一族の木村重茲の養子になる。重成の母・ 宮内卿局は、同年に生まれた秀頼の乳母として大坂城に出仕するが、二年後、関白豊臣秀次事件に連座して重茲が自害したため、母子ともに大坂城を出て、六角義康を頼る。秀吉の死後、 淀殿に召されて大坂城に戻り、重成は秀頼の小姓として近侍する。秀頼の幼少時からの遊び相手であり、乳兄弟の関係であった。

※『城塞』では、

この青年の風変わりなところは、当世具足と呼ばれる新奇で個性的な甲冑を喜ばないことであった。彼の兜は、まるで平家の公達のように古風で、銀の星を打った鉢金に黄金の鍬形の前立ち、鎧は緋縅の大鎧であった。

と描写している。又兵衛は「すがすがしい心意気をもった」重成を好もしく思っている。重成は、日頃は物腰穏やかで慎み深く、軟弱者と陰口をたたかれることもあったが、大坂の陣では武名を上げる。


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木村重成
 

 

◾渡辺内蔵助糺

※槍術の達人。母親はやはり淀殿の女官。

 

◾七手組

※秀吉の親衛隊だったが秀頼の代にはすでに弱体化している。親衛隊長は、

 速水甲斐守守久

 青木民部少輔一重

 真野豊後守頼包

 伊東丹後守長次

 堀田図書頭正高

 中島式部少輔氏種

 野々村伊予守吉安

で、みな官位(従五位下)をもち、それぞれ一万石余りを知行している。『城塞』では、青木はもともと家康の家臣で冬の陣が終わるや、早くも徳川家の家臣に復帰している。伊東も関ヶ原の頃から徳川方と通じていて、大坂の陣幕臣になっている。真野は、藤堂高虎と通じていて、大坂の陣後藤堂家の家来になっている。堀田は既に老齢で、秀頼のために懸命なのは、速水守久ぐらいのものだったとしている。

 

🐱城内には他にも、織田有楽斎、小幡勘兵衛、千姫付きの家来など、徳川方の間諜が沢山入り込んでいて、情報は筒抜けである。 家康は別に、片桐且元に内情を尋ねる必要は無かったのである。あれは、一種の儀式であったと云える。従って、兵糧を尋ねるよりも淀殿・秀頼の居所を尋ねる方が家康の残酷さを強調しているように思われる。🐥

 

 

 

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『真田丸』第43回「軍議」の感想

大河ドラマ真田丸』視聴

 第43回「軍議」

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🐱真田信之、ええお兄ちゃんやなあ。

「源次郎の好きにさせてやりたいのです」

出番は少ないけど、心に残るせりふを言うよなあ。

 

 

🙀 二条城、しょぼい。家康、地味にワル。

片桐且元に大坂方の兵糧の状況を尋ねるというのでは、効果が弱い感じがした。たとえ半年でも籠城が続くのを家康が喜ぶとは思われない。その間に士気も下がるだろうし豊臣恩顧の大名が寝返らないとは限らない。家康は籠城戦が苦手なのだ。 

 

 

🐱茶々、

「この城さえあれば、われらは負けませんね」

「ずっと、待っていました」

「私の愛した人たちと言いました」

「私はどうなってもかまいません。秀頼を死なせないで」

なんかね、扱いづらい。

 

 

🐱軍議は11月初めの設定のようだ。今回の幸村は説得力あったな。なんか、勝てそうな気がした。家康の首さえ取ってしまえば、何が起こるか分からなくなるものな。

「負ける気がいたしません」

 

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🐱軍議自体は茶番だったな。木村重成、やっと出てきた。毛利勝永、存在感をみせたな。明石さん、なんか弱そう。長宗我部さん、なんか好印象。又兵衛は、やっぱり哀川翔にしか見えない。

 
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🐱秀頼くん、優柔不断。

 

 

🐱織田有楽斎、今回もよかったなあ。

先週より嫌らしさが三割増しだったな。

 

 

🐱初、おっとりした感じがぴったりだった。

 

 

🐱「私は本当に負ける気がしないのですよ」

本心から言っているから説得力があるのだろうな。一人だけ意地になって対立して、最後には和解して、五人が団結するところは 、まさにロウニンジャー的展開だったな。


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🐱幸村に賛成する大野治長は新鮮だったな。軍議で悪役は一人いれば十分ということだろうか。

 

 

🐱 「実は、私にも分からないのですよ」

結局のところ、己の力を試したかったのだろうな。九度山で朽ち果てるよりはなあ。照れてこう言ったということだろうか。


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🐱茶々「籠城です。それしかありません」

やっぱり籠城か。結局、淀殿の意向には誰も逆らえないのだな。秀頼やるなと、一瞬思ったのだが。治長もなあ。一瞬見直したのになあ。

 
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🐱次回は「築城」か。築城だけで一話持たせるのか?🐥

 

 

 

📄関連日記

 

 

 

 

 

 


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「ロージョーしましょ🎵」

 

 

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『城塞』中巻再読・軍議は踊る

『城塞』再読(5)

🐱 司馬遼太郎の『城塞』中巻を再読しております。今回は、大坂冬の陣開戦までの徳川方の動きと大阪城内の対応を振り返っておきます。

 

 
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豊臣秀頼

 

 

🐱司馬は、家康の対大坂政略について、

  かれが後世、悪人然とした印象を庶民に植えつけてしまったのは、この時期のやり方が、政略でも戦略でもなく、単なる犯罪計画で、かれ一人がそれを樹て、実行したところにあるであろう。

としている。家康は、半年も前から武器・弾薬・鉛などをさかんに買い入れている。また、大坂との開戦が決定的になったとき、後水尾天皇に対して、秀頼追討の綸旨を賜りたいと願ったという(天皇はこれを拒否)。家康自身後ろめたさがあって、開戦の名分をつけようとしたと考えられる。司馬は、家康が全ての大名を動員したのは、全ての大名を共犯者にしたかったからだと見ている。

🐱『城塞』での家康は、「世間」というものをものすごく気にしている。

戦争というのも世間である、ということを骨の髄から心得ていたのが、世間から大御所さまといわれている徳川家康であった。

「世間というものの心をどうくすぐり、どう恫(おど)し、どうころがすか」

  むろん、この場合、敵も世間であり、味方も世間である。世間ということにおいては、敵味方とも一つのものであった。

🐱『城塞』における家康は「巨悪」の典型であり、淀殿は「愚」の典型であるように描かれていると思われる。 

 


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徳川家康

 

 

◾慶長19年(1614)9月18日、家康、播磨の国主池田利隆(輝政の子)に尼崎まで 兵を出すように命じる。

※司馬はこれが軍令第一号であったとしている。淀殿は何も知らず大蔵卿局の報告に望みを託している。

 

◾9月20日、片桐且元が、淀殿に徳川方の要求を報告する。

 

◾10月1日、片桐且元大坂城を退去。

家康(73歳)、開戦を決意。諸大名に動員令を発する。

※10月2日、本田正純が藤堂高虎に宛てた書状より(読みやすいように多少改変)。

大御所様、 今度の仕合をお聞きなされ、おおかたも無くお若やぎなされ、[略]、昨日、ちとお気合あしく御座候つるが、大坂の仕合お聞きなさり候てより、すきすきとよくおなりなされ候。

※大坂謀反ときいた家康は、愛用の刀を腰に差し、「大坂討滅は本望なり」と叫び、刀をさっと抜いて飛び上がったという。(70過ぎの爺さんが)

※『城塞』では、福島正則にだけ、「江戸で留守をさせよ」と命じている。(実際には、加藤嘉明黒田長政平野長泰も江戸残留を命じられた)

 

◾10月11日早暁、家康、駿府城下を出陣し、西征の途につく。

※家康は、股引・羽織・わらじという鷹狩りの装束で、五百人足らずの小勢だった。 行くさきざきで放鷹を繰り返しながら、ゆっくりと行軍している。

 

10月12日、堺合戦。大坂方、堺を占領 。

😽大河ドラマ真田丸』では、幸村が大坂城下の兵糧の確保と堺の占領を進言しているが、戦略としては基本中の基本であり、大坂方もそこまでアホではない。あの場面、分かりきった事を偉そうに言うキャラかと思った。兵糧は、早い段階で確保し始めている。

 

◾10月13日、真田幸村大坂城 入り。

板倉勝重からの報告は、14日に駿府に届いている。家康は、特に意に介した様子はなかったという。「親か子か」と尋ねながら戸に手をかけてがたがたと震えたという逸話は創作らしい。(丸島和洋『真田四代と信繁』)

※『城塞』や大河ドラマ真田丸』では家康の出陣前に大坂城入り している。

 

[大坂方総大将決まらず]

※『城塞』では、9月の段階で織田信雄を総大将にしようとするが逃げられている。その後、大野修理の弟主馬(治房)案が浮上するが、主馬は即座に断っている。 司馬は、大将の人選が 遅れたのは、大野修理が希望的観測 に固執し過ぎたためだとしている。

福島正則黒田長政加藤嘉明の三人はかならず入城する」

大野修理(と淀殿)は、豊臣家の威光が、今なお世間に対して有効であると信じているのである。そんなこんなで大将が決まらないまま、軍議は毎日開かれるのだが、部署割りからして紛糾する。百論百出して容易に決まらず、 結局くじになる有様である。

大坂城には大将といえるほどの存在はなく、武略のことはもっぱら衆議による。その衆議も大野修理が秀頼に申次をするため、その意見のみ重く、牢人諸将の意見は多くは軽んぜられる。

 

[軍議は踊る]

※家康がまだ京に入らない頃、大坂城本丸御殿において秀頼臨席の上で軍議が開かれた。軍議の内容は書く人によって内容が微妙に異なるのだが『城塞』の場合は、幸村が父昌幸が遺言として残した出戦論を元に自ら考えた策を説いている。それは、天王山に本陣をおき、京を焼き、大和路を制圧し、さらに進んで宇治・瀬田川を守り、この線をもって家康の西上を防ぐというものである。又兵衛はじめ諸将が賛成するが、大野修理治長が籠城論を唱え反対する。淀殿が許さないからである。大野修理は、淀殿の意には逆らわないのである。 

じつは、幸村の出戦案は修理にとって初耳ではなく、それ以前からきいていて、淀殿に申しあげたことがある。そのとき淀殿はぴしゃりといった。

「右大臣家(秀頼)を城外にお出し申しあげることはできませぬ」

 

※『難波戦記』によると、大野治長片桐且元の茨木城を落とし京を焼き討ちし板倉勝重を虜にしようと提案し、幸村が宇治・瀬田川まで進むことを提案し、又兵衛がそれに乗るが、小幡勘兵衛景憲が「宇治・勢多を守って古来勝利した者はない」と異論を唱え、結局籠城策が採用されることになる。

火坂雅志の『真田三代』は、これを踏襲し、小幡勘兵衛は登場せずに、治長は籠城策に転じている。

 

 

◾10月23日、家康、二条城に入る。

※家康は、片桐且元大坂城の濠の深浅や、諸方攻口のようすなどを絵図面で説明させている。『城塞』では、秀頼・淀殿の居所のあたりに朱点を入れさせている。 

且元は地図の上を這い、点を打った。地図から離れたとき、息づかいがみだれ苦しげであった。且元は朱点を入れることによって、旧主を売ったのであろう。家康が且元に期待したのはそれであった。

※家康は、井伊直孝藤堂高虎を先鋒に指名している。

※『城塞』では、家康の上洛を知った淀殿が、鉢巻・腹巻姿で薙刀を持たせた侍女らをしたがえ城内を巡視している。 

 

◾同日、秀忠、約六万の大軍を率いて江戸を出発、11月10日、 伏見に到着する。

真田信之は、健康を理由に江戸に留まり、息子の信吉・信政を派遣している。

※秀忠は関ヶ原の恥辱をそそごうと考え、「自分がつくまで、攻撃を始めないでくれ」とたのみ、夜を日に継ぐ強行軍で駆けつける。そのため、将士がくたくたに疲れて戦力の低下をきたしたために、またしても家康の機嫌を害している。

 

◾11月15日、家康、二条城を発ち奈良に入る。

※『城塞』では幸村は、諜報網を張りめぐらしており、この情報をいち早くつかみ強襲を進言し、又兵衛も賛成するが、大野修理に拒否される。

※『真田三代』では、猿飛佐助と 霧隠才蔵が強襲したが失敗に終わっている。

 

◾11月16日、家康、奈良の宿陣を出発、大和路を西進、法隆寺に泊まる。

◾11月17日、家康、終日寒風が吹く中、強行軍で河内に入り、住吉の里に着く。

◾11月18 日、家康、早朝に住吉を発ち、枚方経由で主力軍を率いてきた秀忠と茶臼山で落ち合う。

 

◾11月19日、木津川口の戦いをもって、 大坂冬の陣の戦いの火蓋が切られる。

 


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 ※大坂方10万人、徳川方20万人と云われている。

 

 

 

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大坂城防衛戦隊ロウニンジャー

『城塞』再読(4)

🐱今回は、大河ドラマ真田丸』第42回「味方」の復習を兼ねて、司馬遼太郎『城塞』中巻に合わせて、牢人五人衆について見ていこうと思います。

 


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明石全登(あかしてるずみ)

※明石氏は、もとは播磨国明石郡の国人で赤松氏に仕えていたが、その庶流が備前国へ流れ地侍になり、台頭した宇喜多氏に臣従した。

※全登は、永禄9年(1566)、保木城主・明石景親の子として生まれる。

※慶長4年(1599)、宇喜多氏で御家騒動が起こり、全登は宇喜多秀家の要請で宇喜多家の執政となる。(宇喜多家は五十七万四千石、明石家は三万三千石)

※『城塞』では、全登は秀吉に愛されて直参待遇をうけ、官位も授けられ、大名格として遇されたとしている。

※翌年の関ヶ原の戦いでは、福島正則らと激戦を展開したが、小早川秀秋の裏切りで西軍は敗走。宇喜多家は改易となり、秀家は八丈島に流される。キリシタンであった全登は、キリシタン仲間の黒田直之(筑前秋月・黒田如水の弟)に匿われる。

※慶長14年(1609)、直之が他界し、如水の子の長政が幕府の方針に従って領内にキリシタン禁教令を出すと、全登は秋月を出奔し、他のキリシタンを頼ったようである。

※『城塞』では、全登は奉教人(キリシタン)保護のため、大坂に潜伏している。司馬は、大坂は幕府の威令が届きにくいため奉教人が大坂に集まって来ていたとしている。洗礼名は「ジョアニー」としている。

大坂の陣の際には、すでに六十歳ほどであったが、豊臣家がキリシタンの自由信仰を約束したことで、キリシタン牢人二千人を率いて大坂入城、全登の母娘や司祭らも共に入城したという。入城一番乗りだったという説もある。

😽『真田丸』では、今のところ、お祈りしかしていないな。

 
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😽オフロスキー改めミサスキー

 

 

後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)

※永禄3年(1560)、播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。後藤氏は黒田孝高(官兵衛)に仕えていたが、天正6年(1578)に一族追放にあい、仙石秀久に仕えることになる。天正14年(1586)から黒田長政に仕えたという。

天正15年(1587)12月、長岩城攻めで瀕死の重傷を負う。

※文禄元年(1592)、朝鮮出兵に従軍し、第二次晋州城攻防戦で一番乗りを果たす。

※慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで武功をあげ、長政が筑前五十二万石の大名になると、又兵衛も筑前大隈に一万六千石の領地を与えられる。

※慶長11年(1606)、一族とともに黒田家を出奔する。又兵衛は、もともと長政と折り合いが悪かったようで、いろいろ逸話が残されている。如水の死後、二人の対立が表面化したという。又兵衛は細川家に身を寄せたが、長政は、他家への奉公を禁じる「奉公構」で対抗し、又兵衛の士官の口を封じる。(長くなるので詳しいことは省略する)

※大坂方から誘いを受けたときには、すでに五十五歳だったが、大和で「寺侍などに武辺の道を教えたり」して糊口を凌いでいたという。司馬は、京や伊勢で物乞いをしていたこともあったとしている。そういえば、「乞食大将」という異名もあったな。

※『城塞』では、「総帥たるべき器量人」として描かれているが、位官を持っていないので総大将になれないとされる。知名度も人気も高く、秀頼も又兵衛を信頼している。

※いろいろ伝説が多いが長くなるので省略する。この辺りのエピソードはWikipediaが詳しい。

後藤基次 - Wikipedia

😽『真田丸』では、今のところ、哀川翔にしか見えないな。

 
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毛利勝永(もうりかつなが)

天正5年(1577)、森勝信の子として尾張国に生まれる。勝信は早くから秀吉に仕え、秀吉親衛隊の黄母衣七騎の一人であった。

天正15年(1587)、九州平定の功により、勝信は豊前国小倉城六万石を与えられ、勝永も一万石を拝領する。このとき秀吉は、「西国では名の通った毛利の方が都合がよかろう」という理由で、毛利姓を与えている。

関ヶ原の戦いでは迷うことなく西軍につき参戦。敗戦後改易となる。加藤清正に預けられたのち、土佐藩主となった山内一豊に預けられる。毛利父子とは旧知であった一豊は彼らに流罪人としては異例の厚遇を与えている。

※慶長16年(1611)、毛利勝信没。

※大坂方から誘いを受けたとき、勝永は後に残す妻子の運命を考えて迷ったという。そのとき勝永の妻は「私にも覚悟は出来ております」と言って背中を押したという。そこで勝永は山内家をうまいこと言いくるめて、嫡男勝家とともに大坂入城を果たしたという。山内家は勝永の妻や次男を捕縛して幕府に処断を仰ぐが、家康は「丈夫の志のある者なら、誰もがそうするだろう。勝永の妻子を罰してはならない」と命じたという。

※『城塞』での勝永は、「色黒く、大兵の人物で、一見海入道」のような壮漢である。大野修理の従兄弟にあたる家臣を大坂に常駐させ様子をうかがわせている。山内家当主の忠義とは衆道の関係であったという。家康は「豊前(勝永)が武略なり」と裁断している。勝永は秀頼の幼少時に遊び相手をしていて、勝永が拝謁したとき秀頼は、

「予はそのほうを覚えている」

と、喜んでいる。

😽『真田丸』では、今のところ、よくわからんな。 


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長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)

天正3年(1575)、長宗我部元親の四男として生まれる。

天正14年(1586)、長兄信親戦死。

天正16年(1588)、元親は溺愛していた盛親を世子に指名し、反対者を処刑。

※慶長4年(1599)3月、元親、三男親忠を幽閉。(次男親和は早逝している)

5月、元親没。盛親が家督を継ぐ。

※慶長5年(1600)、家中が安定しないうちに関ヶ原の戦いが始まり、成り行きで西軍に加担。毛利軍の後方に陣を敷いたが、毛利軍が動かなかったため、何もしないまま敗走。井伊直政を通じて家康に謝罪したが、姦臣にそそのかされて兄親忠を自害に追い込んだ事が家康の怒りを買い、二十二万二千石の所領を没収される。

※牢人となった盛親は、大岩祐夢と号して相国寺門前の柳ヶ厨子寺子屋の師匠となり、京都所司代板倉勝重の監視下に置かれる。

※御家再興を願いながら十四年雌伏したが、大坂方の誘いに応じる。板倉勝重を騙して安心させたその夜、甲冑に身を固め従者を従えて大坂に向けて出発すると、道々家臣が合流し、伏見では一千騎の軍団になったという。盛親の大坂入りを知った旧臣たちも続々と大坂城に入城し、牢人衆の中では最大の手勢を持っていたという。

※『城塞』では、関ヶ原の失敗が悔やまれてならない人物として描かれている。

😽『真田丸』では、戦嫌いで寂しがり屋のお茶目な長宗我部さんだが、実は大物なのだ。三谷幸喜も人が悪いな。


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真田信繁(さなだのぶしげ)

真田信繁は幼名を弁丸、元服して源次郎信繁、従五位下左衛門佐に任官し、入道号好白を称した。(前日の記事で紹介した書状にも「真好白」と署名がある)

※兄信之の回想によると、物事柔和にして険しい態度をとらず、無口で怒ることは少なかったという。

※文禄3年(1594)11月2日、兄信幸と同時に従五位下左衛門佐に叙任される。文禄の役のときの記録に信繁の身分は「馬廻」と記されている。つまり、秀吉の直参衆だったことになる。

※秀吉時代、信繁は馬廻として一万九千石を知行していた。因みに、昌幸は三万八千石、信幸は二万七千石だった。

(以上、丸島和洋『真田四代と信繁』より)

🐱真田幸村自身は、大名ではなかったが、直参で位官もあるので大名格とされる。(『城塞』では)五人の中では又兵衛だけが無位なのだ。これは、当時では重要なことだったと思われる(Wikipediaでは、又兵衛は従六位下となっていたが、他は五位以上であり、五位と六位の格差は大きいので同じことであると思う)。


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🐱真田信繁が幸村と自称した事実はないとされているが、『真田丸』で信繁が幸村と名乗った事を知った信之が、

「わしが捨てた幸の字を拾いおったか」

と、唸った場面は凄く良かったと思う。🐥

 

 

 

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真田幸村書状原本100年ぶりに発見される

『城塞』再読(3)

🐱今回から、司馬遼太郎『城塞』中巻に入ります。中巻は真田幸村の大坂入城から始まるので、大河ドラマ真田丸』第41回「入城」の復習を兼ねて、真田幸村九度山退去を振り返っておきます。

 


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◾慶長5年(1600)12月、真田昌幸・幸村親子、高野山に配流。その後、九度山に移る。

※主君とともに牢人した家来衆は、高梨内記、小山田治左衛門など十六名。『城塞』では山之手殿も九度山住まいとなっているが、通説では上田に残っている。側室は連れて来たとされている。

※幸村の妻室は、正室竹林院(春)、高梨内記娘(きり)、隆清院(たか)が九度山に来ていて、堀田作兵衛妹(梅)は作兵衛とともに上田に残ったとされている。幸村は、九度山で嫡男大助(慶長七年出生)をはじめ二男五女をもうけている。

九度山での生活は、扱いは悪いものではないとはいえ厳しいものであったという。国許からの支援だけでは足りず、あちこちに借金をしていたという。

※『城塞』では真田紐を作って、その販売を通して情報を収集している。

 

 

◾慶長16年(1611)6月4日、真田昌幸没(65)

※「重病を受けて、まさに死なんとす。よって嘆息し、我に一つの秘計あり、これを用いずして徒(いたずら)に死なんこと口惜し、と」(「真武内伝」、「武将感状記」)

※『城塞』では、幸村が、その秘策を授けて欲しいと頼むと、昌幸は、世間的に無名な幸村では、どんな妙案でも大坂の城衆を信用させることは出来ないから無理だと諭すが、幸村がなおもせがんだので、ついに明かしている。

「人間というのは過去から現在までの世間における履歴で事をなせるのだ」

※幸村が代筆した最晩年の書状には、

「この一両年はもう年を取りましたから気根が草臥れました」

とある。この書状の追伸に幸村は自身のことを、

「私にいたりましては、なおさら大草臥れ者になりました」

と、認めている。(丸島和洋『真田四代と信繁』)

※昌幸没後、上田に帰国する家来衆もいたようで、幸村は「ひとしおうそさぶく」と書き記している。(同上)

 
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真田昌幸

 

 

◾慶長19年(1614)10月9日、幸村一行、九度山退去。(10月7日説もある)

※『城塞』では9月25日になっている。『真田丸』でも、家康の駿府出発前に幸村は大坂城に入城しているので、前例を踏襲したようだ。火坂雅志の『真田三代』は10月9日説を採用している。

※『城塞』では、大坂城からの使者は、大野修理大夫家来米村権右衛門が、やって来ているが、『真田三代』では、明石掃部全登が使者として九度山を訪れている。

※『城塞』では、法事を理由にしているが、伝承では、日頃のお礼がしたいと、村人たちを招いて酒宴を催し、村人たちがすっかり酔いつぶれた隙に、こっそり村を抜け出したという。

※『城塞』では、農民たちが寺の周囲を取り囲んだが、真田主従の武威に恐れをなし、ただ見送るだけだったという「古老茶話」の逸話を採用している。

火坂雅志は、農民たちは、むしろ積極的に幸村に力を貸したのではないかと推測している。

※『城塞』も『真田三代』も幸村一行は五十人程だったとしている。火坂雅志は、高梨内記ら近臣、妻子に、九度山周辺の郷士が加わったとしている。(『真田三代』では、佐助や霧隠才蔵も数のうちに入る)

※脱出方法やその後の経過については、さまざまな逸話が伝えられている。九度山を脱出した幸村一行が、大坂に近づくにつれて、真田の旧臣たちが、ひとりまたひとりと加わったという伝承もある。

 

◾同年10月13日、幸村一行、大坂入城。

※『武辺咄聞書』などによると、入城に際して幸村は、頭を丸めて山伏の姿となり、伝心月叟と名乗って大野治長の屋敷を訪れたという。取次の士は山伏と聞いて軽視し、番所に留め置いたが、身につけている刀と脇差が風体と一致しない高級品であったため、治長の家臣が改めたところ、刀は正宗、脇差は貞宗の銘を持つ名刀であった(『城塞』では、貞宗・信国)。それで、これはただ者ではないとなり、治長が対面したところ、幸村と判ったとある。

※『城塞』では、この逸話を大坂に着く前に設定している。大野修理(治長)らが平野口で幸村一行を出迎え、宿に案内している。秀頼の使者として秀頼の側近速水守久が宿を訪れている。大坂城にとって「天下に喧伝すべき好材料」であるために、幸村を堂々と入城させている。

※『真田三代』では、大野道犬斎(治長の弟)が平野口まで迎えに出向き、大野邸に招き入れている。幸村は大野邸で秀頼の使者速水守久と面会している。

※『真田丸』では、幸村が老人に扮装することで、展開をスピーディーにしている。

※10月10日大坂入城説もあるようだ。

 

※『石合家記』(石合十蔵家の家譜)は、高野山からの随身十六騎、信濃からの参陣五十騎とする。この五十騎に堀田作兵衛興重も含まれる。『幸村君伝記』は、信濃から駆けつけた家臣を百八十人としている。(丸島和洋『真田四代と信繁』)

 

後藤又兵衛基次配下の長沢九郎兵衛の覚書によると、「真田左衛門佐は四十四、五にも見え申し候、額口に二、三寸の疵痕これあり、小兵なる人にて候」とある。

 

※真田家家臣河原綱徳が幕末に編纂した『真田家御事跡稿』によると、大坂の陣で討死した時、49歳であったという。それで、永禄10年(1567)生まれというのが通説になっている。ところが同書は、真田家の菩提寺長国寺の過去帳には享年46とあったとも記している。これに従うと元亀元年(1570)生まれとなる。(丸島和洋『真田四代と信繁』)

 


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真田信繁

 

 

 

😺慶長19年2月8日付とみられる幸村が姉の夫で家臣の小山田茂誠に出した書状があって、そこには、

「去年よりにわかに病者になり、歯も抜け、鬚なども黒きは少なく候」

と、わが身の衰えを嘆いている。この書状は影写本は現存するのだが、原本の所在が分からなくなっていた。それが、今回、百年ぶりに発見されたのだ。🐥

 



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京都新聞2016年10月25日朝刊

🔎真田幸村の書状、100年ぶり発見 京都で公開、幽閉や老い嘆く : 京都新聞

 

 

 

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『真田丸』第42回「味方」の感想

大河ドラマ真田丸』視聴

 第42回「味方」

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🐱『真田丸』を本格的に視聴するのは前回の第41回「入城」からです。大坂の陣をどのように描くのか興味があります。(一年通して見るのは、正直しんどい)


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🐱『真田丸』の淀殿は、意外にも落ち着いた感じの女性になっていた。司馬の描く淀殿は盲目的に豊臣家の権威を信じ秀頼しか見えない母親だったが、今後どういう役柄を演じるのだろうか。

 

 

🐱織田有楽斎が、いかにも裏表がありそうでよかった。井上順がぴったりのキャスティングだなあと思った。


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🐱大野治房は武断派なのであんな感じだろう。


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🐱無言で睨まれると、なんか怖いぞ。

 

 

🐱真田幸村長宗我部盛親毛利勝永の三人は大名格で官位もあった。明石全登はキリシタンで宇喜多家の主席家老だったが、秀吉に認められて大名格で官位もあった。後藤又兵衛は黒田家の家臣だったが黒田長政と確執があり出奔して牢人になった。この五人が牢人五人衆と呼ばれたが、後藤又兵衛だけが大名格ではない。それもあって、自分を売り込む必要があったということだろうか。『城塞』では、又兵衛は度量の大きい男として描かれている。『真田丸』の又兵衛はちょっと小物っぽい感じがした。

 

 

🐱長宗我部、お茶目過ぎるぞ。


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🐱『城塞』を始めとして、大坂の陣における家康は、権力の権化で悪謀の限りを尽くして豊臣家を滅ぼす冷酷非道な人物として描かれることが多いのだが、『真田丸』の家康は甘くて気弱で逆を行っていて、代わりに阿茶局が冷酷な役を受け持っているところが面白かった。これがうまくいくかどうか。


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🐱手つきが様になってるね。

 

 

 

🐱秀忠も、家康に忠実で凡庸な将軍に描かれることが多いのだが、逆を行っているようだ。ここでもお江が強気だ。この辺りが三谷幸喜の趣向だろうか。


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🐱司馬遼太郎の『城塞』では、家康が、和平派の大御所と武断派の将軍という演出をして、頼りない秀忠に箔を付けようとしている。律儀だが凡庸な秀忠は、関ヶ原での失敗を取り返したい気持はあっただろうが、自ら戦を仕掛ける程の才覚があったとは思われない。

 

 

🐱本多正信のニヤニヤ顔が善いなあ。


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🐱作兵衛、やはり出てきたか。


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🐱「手が……、いや、違う!」


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😽どうでしょう

 

 

🐱秀頼は淀殿が公卿として育てて武士っぽくない人物として描かれることが多いのだが、今後どういう役柄を演じるのだろうか。

(世間ズレしていない感じは、よく出ていた)

 

 

🐱塙団右衛門、やはり出てきたか。


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🐱木札配ってる!使い方間違ってね?


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🐱そういえば、木村重成を見かけなかったな。見落としたかな。

 

 

🐱『真田丸』では、真田幸村の入城を知って家康は出陣を命じたことになっているが、そんなにすぐに全国の大名を動員できるわけがない。実際には10月1日に動員令が出されている。家康が駿府を発ったのが10月11日、幸村の大坂城入城が10月13日である。『城塞』と同じように、幸村の入城を9月に設定しているようだ。

 

 

🐱大河ドラマに史実に忠実であることを特に期待はしていない。なんといっても『真田丸』の主人公は真田幸村なのだから、多少の逸脱は面白くなれば構わないと思っている。いっそのこと大坂方が勝ったりすれば面白いのにとさえ思う。🐥

 

 

 

 


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幸村「早熟でした」

 

 

 

📄関連日記

 

 

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「徳川なんか、ひねり潰しちゃう❤」