『城塞』再読(13)
🐱司馬遼太郎『城塞』下巻を再読しております。大河ドラマ『真田丸』に先駆けて、今回は、夏の陣に至るまでの過程を振り返ります。
◾家康は、自分の寿命がいつまでもつのかということで気の焦りもあり、事を急いでいた。冬ノ陣の和睦直後には、「秀頼を大和に移封する」という風説を流している。これは、和議の条文(秀頼の居城も封土も元のまま)を無視するものであった。さらに、
家康が冬ノ陣で大坂からひきあげるとき、その謀臣たちに、すぐ折り返して再征するつもりだ、その支度をしておくように、と命じたが、この内命がその直後にあらゆる諸侯の耳に入ったために、公然の秘密になり、大坂にもきこえてしまっている。
大坂としては、牢人を徴募せざるをえないであろう。同時にその徴募が、家康にとって絶好の征討の理由になるというぐあいに循環する。
◾元和元年3月5日、京都所司代・板倉勝重、「大坂方が堀を掘り返し、牢人を集め、彼らが京都で乱暴狼藉を働いている」と駿府の家康に報告。
◾3月12日、板倉、「大坂城では、米・材木を集めているばかりか、冬ノ陣で籠城していた牢人は、解雇したはずの者すら一人も去ってはおらず、大野治房(主馬)に至っては、さらに牢人を召し抱え、すでに開戦の談合まで行っている」などと町人からの情報を報告。
◾3月15日、和睦を維持したい大野治長は釈明のため、使者として米村権右衛門を駿府の家康のもとへ送る。それに対して、家康は、秀頼の大坂退去か牢人の全追放かの二者択一を迫る。
◾4月1日、家康、土井利勝と酒井忠世の連名をもって畿内の諸大名に、大坂からの落人の捕縛を命じる。
◾4月4日、家康、第九子義利(尾張徳川義直)の婚儀に参列するためと称して駿府を発つ。
◽同日、大坂城評定。秀頼の決意表明、
「家康がきたらば来よ、予はいさぎよくこれと決戦し、武運つたなくやぶれたるときは最後の一矢を射放って討死する覚悟である」
冬ノ陣の戦闘は、秀頼を一時におとなにした観がある。
※織田有楽の嫡男頼長、総大将に立候補して一同から反対される。頼長、怒って退城。
※『城塞』では、冬ノ陣の後、家康におだてられて勘違いして天狗になった大野治長がそのまま総大将的な位置についている。これは、家康の策謀で又兵衛や幸村に総大将になられると困るので無能な治長が総大将になるように仕向けたのだ。
※治長の母大蔵卿局は、主家を裏切らぬという点では安心な男であると、息子を評価している。淀殿は、親戚の織田信雄や有楽に裏切られ、「まして牢人どもは油断できぬ」と、ひとえに修理を信頼している。成長した秀頼は修理を信頼していない。
◾4月5日、大野治長の使者が家康のもとを訪れる。そこで示されたものは、国替え案を撤回してほしいという秀頼・淀殿からの嘆願であった。
「悠長なことだ」
家康はめずらしく声をたてて笑った。当方は征討の途にのぼっているというのに、征伐されるほうはいまどきそんな返事をもってきたのである。
◽同日、秀頼、「城外お見廻り」
淀殿はこれをきいて、秀頼の身の危険をおもい極力反対したが、秀頼はきかなかった。秀頼はどうやら冬ノ陣以前のかれとはちがった人物になりつつあった。
しかもその行列というのは、ただの儀礼的なものではなく、豊臣家の軍容を誇示するという目的を兼ねており、ことごとく重装備しているばかりか、その軍列および母衣武者や歩卒の行装は太閤の盛時そのままを踏襲していた。
この日、秀頼とその麾下が練ってまわったのは、おそらく決戦場になるであろう土地土地であった。
※大野修理治長は、お城でお留守番。
▶その夜の淀殿と修理の会話。
淀殿「このたびの戦い、勝てるであろうな」
修理「••••••」
淀殿「勝てるか」
修理「••••••なんとか御運のひらけるように相努めてみたいと存じておりまする」
淀殿「勝てるか、ときいておる」
と、いったが声は小さい。
▶この会話の後、修理は、屋敷に戻る途中で刺客に襲われ負傷する。犯人は、大野主馬の家来成田勘兵衛の家来服部源蔵であった。服部源蔵は修理の家士平山重蔵に斬られ即死、成田勘兵衛は自邸に火を放って自殺した。
※大野主馬は、過激派の代表で、兄修理の無能と優柔不断が作戦の不統一をまねいているとし、兄を血祭りにあげねばと洩らしていたが、主馬が事件に関与した証拠は無かった。
※この事件を4月9日とする本もある。主馬は、冬ノ陣で治長の無能な命令で恥をかかされたことを根に持っていたという。12月17日の塙団右衛門の夜襲に主馬も参加したのだが、木札をばらまいた塙においしいところを全部もって行かれて目立たなかったという。
◾4月6日、家康、伊勢・美濃・尾張・三河などの諸大名に伏見・鳥羽に集結するように軍令を発する。
※「大坂移封のために軍を発する」という名目だった。
◾4月7日、西国諸大名に対しても出陣準備を命じる。
◾4月10日、家康、尾張に到着。将軍秀忠、江戸を出発。
◾4月12日、尾張において義利の婚儀が行われる。
※織田有楽、家康を訪ねる。
◾4月15日、家康、尾張名古屋城を出発、海路、伊勢桑名に入る。
◾4月18日、家康、二条城へ入る。
◾4月21日、家康、伏見城に入る。
※すでに京入りしている大名は、伊達政宗、黒田長政、加藤嘉明など。
※引き続き、前田利常、上杉景勝、池田利隆らが、京入り。
◾4月23日、将軍秀忠、京入り。
◾4月24日、将軍秀忠、伏見城にのぼる。
◾4月25日、家康は、大蔵卿局、二位局らを呼び寄せ、最後通牒を突きつける。
「大坂へもどって秀頼に申せ。おとなしく大和に移れ、と。それが秀頼の仕合わせの道である。そう勧めるのが媼たちの忠義である」
大蔵卿局もさすがにこの時期になれば、家康という男のことばを片鱗も信じられなくなっていた。
城に帰って、すぐ淀殿に拝謁した。大蔵卿局がいっさいを報告したが、淀殿は、
──自分にはよくわからない。
とのみ言い、無表情のままときどきかぶりを振った。
この件を秀頼に申し次ぎしたのは木村重成である。
秀頼は大きくうなずき、
「返書は」
と、天性張りに富んだ美しい声でいった。
「無用である」
これがいわば徳川に対する断交と宣戦の布告というものであったであろう。
◾先鋒を務める藤堂高虎隊と井伊直孝隊が、それぞれ淀と伏見を進発、河内路をとる。
※別働隊が、大和路をとるが、家康は先鋒大将に水野勝成(三万石)を選んでいる。(水野家は家康の生母於大の実家)
◾4月26日、大坂方が先手を打つ形で大坂夏の陣の前哨戦が始まる。
😽大河ドラマ『真田丸』も残すところあと四回。夏の陣は、一気にやってしまいそうだな。最後はどうするつもりだろうか。幸村・秀頼生存説を採用するかどうか。
📄この記事の続き
📄この記事の前
😽家康は、幼少時から何度も窮地に陥りながら生き延びてきた。その悪運の強さを呼びこんだのは、忍耐力と学習能力と判断力と決断力と冷酷さだろうか。
🐱絶賛愛読中だった新聞小説『家康』(安部龍太郎作)が「三方ヶ原の戦い」までで終わってしまった。残念。早く続きが読みたいものだ。ここまでの家康は、乱世の非情さに翻弄される一大名に過ぎない。家康がいつ非情な権力の亡者となるか、そこが読みたいのだが。🐥