ブラタモリ #96田園調布(1/3)
~田園調布はどう超高級住宅街になった?
近江(今日は田園調布でタモさんぽ🎵)
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タモリ「うちの近くなんですけどね」
タモリさんの自宅は目黒区八雲にあります。
直線距離だと3kmくらい。
およそ9000世帯。人口約1万9000人。
弁が立つ、腕が立つ、田園調布に家が建つ!
ナスは茄子と那須の掛詞になっている。
1971年結成、2003年コンビ解消
右・星セント(1948-2004)
左・星ルイス(1948-2005)
大田区になるんだ。
タモリ「今日はセレブ感を出して」
田園調布駅。本当の駅は地下にあります。
1990年に駅地下化のため旧駅舎は解体されて、2000年にシンボルとして復元されました。
駅の東口から西口へ。
駅の東側は階段があるけれど、西側は平坦。
つまり、東側よりも西側の方が高いということになります。
大田区だけど築地さん。
渋沢栄一らが田園都市株式会社を立ち上げたのが、1918年(大正7)です。
実際に分譲が開始されたのは、1923年(大正12)8月からです。
どのような様子だったか?
築地「人家はほとんどありません」
草彅「それは東京の中心部で人口が急増していたことでした」
草彅「そこで、当時まだ開発が進んでいなかった郊外に」
草彅「実はそこには、それまでの日本になかった」
欧米風
それを言うなら大阪の方が早いで。
初代通天閣(1912年)
手前はルナパーク。
これは前回の『宝塚でブラタモリ』でも紹介した大阪商業会会頭・土居通夫の発案です。通天閣の「通」は、土居通夫の「通」を盛り込んだとも言われています。
放射状に3本、道がのびてるしね。
今日は田園調布でブラタモリ!
タモリ「駅からすぐ住宅街、これがすごいところ」
ご機嫌なタモリさん。
ずっと曲がっていますね。
放射状の道と環状道路を組み合わせた構造が田園調布の特徴。
タモリ「土地が分譲しづらい」
渋沢栄一の四男。この人の発案です。
設計したのは、矢部金太郎。田園調布駅の設計もこの人。
渋沢栄一らは、欧米の都市を念頭においた郊外住宅の開発と鉄道などの整備を構想して、1918年(大正7)に田園都市株式会社を立ち上げました。
1919年(大正8)渋沢秀雄が田園都市視察のため欧米11カ国を訪問します。
1920年(大正9)秀雄は田園都市株式会社取締役に就任します。ところがこの年、第一次世界大戦後の恐慌で株式が暴落し、経営が悪化します。
それで、その不況下でも阪神地区で沿線開発に成功していた小林一三にアドバイスを求めることになったわけです。
最初は固辞していた小林でしたが、名前を出さず、報酬も受け取らず、役員会には月に一度だけの出席という条件で、1921年(大正10)に田園都市株式会社の実質的な経営者になります。
1922年(大正11)まず、洗足地区の洗足田園都市の予約分譲が始まり、購入希望者が殺到します。こちらの道路は碁盤状。
ところが小林は、せっかく方針を定めてもさっぱり実行できないから、もっと実行力のある役員を入れろと言って、五島慶太を推挙します。
そして、鉄道部門を分離独立させて目黒蒲田電鉄株式会社を設立し、五島慶太に経営を任せます。
1923年(大正12)3月、目黒蒲田電鉄株式会社の目黒-丸子(現・沼部)間(目黒線)が開業。
同年8月、田園調布の分譲が始まることになるわけです。
(田園都市 (企業) - Wikipediaを参考にしました)
宝樹さん。宝の樹とはお金持ちそうな名前。
田園調布生まれの田園調布育ち
わざわざ道をカーブにしたねらいは何だったのでしょう?
道がまっすぐの場合。
カーブしている場合。緑の印象が強くなる。
大正時代に分譲地がつくられたばかりの頃の建築規則がこちら👇
瀟洒典雅のものたらしむること
ただし、採算を度外視した構想だったようで、小林一三があきれたのも無理ないと思います。
そこは、自ら阪急グループを一から築き上げた実業家・小林一三と、四男坊・渋沢秀雄の経営に対する姿勢の違いでしょう。
確かに、大変。
宝樹「散歩しても非常に楽しい」
タモリさんの名言「直線を見たら秀吉と思え」
近江「カーブが好きな方も…」
秀吉と比較するところがブラタモリらしい。
なるほどねえ。
築地「もともとは調布村という村名」
1889年(明治22)上沼部村、下沼部村など4つの村が合併して調布村となる。
1928年(昭和3)町制施行の際、北多摩郡調布町と区別するために、東調布町と改称。
あ、何だっけ?
ありました。
あ、ガーデンな。
ガーデンシティーな。
厳密に言うと、イギリスのガーデンシティと渋沢らの田園都市構想は少し違うらしい。
田園都市 (企業) - Wikipediaの「田園都市の理念」の項に詳しい解説があります。
1923年(大正12)に分譲されたときの名称は「田園都市多摩川台」でした。
1926年(大正15)に調布駅が「田園調布駅」と改称されます。この頃、分譲地の一般呼称は「調布田園都市」でした。
つまり、「田園調布」という呼称は駅名が最初だったのです。それがだんだんと広まっていったわけです。
1932年(昭和7)に東京市大森区に編入された時、行政区画として「田園調布」の地名が誕生しました。この時、一部は編入されずに、「玉川田園調布(世田谷区)」になりました。
(田園調布 - Wikipediaを参考にしました)
「田園」をそのまま英訳すると、countryside とか rural area とかになりそうね。
「街全体を庭園都市とすることを建設の目的とした」ということですね。
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