森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

若冲生誕300年

10月の読書録05ーーーーーーー

 若冲 JAKUCHU

 狩野博幸

 角川ソフィア文庫(2016/04/25:2010)

 1610-05★★★★

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🐱本書は、角川ソフィア文庫のJapanologyシリーズの一冊で、カラー図版が豊富である。伊藤若冲の生涯が詳しく解説されていて、近年明らかになった若冲の新事実についても紹介されている。また、作品鑑賞のコーナーもある。若冲入門書としては申し分ない内容であり、手軽に美術を楽しむには丁度良い。

🐱著者は、昭和22年福岡県生まれ。日本近世美術史家。九州大学文学部哲学科美学・美術史専攻卒業。九州大学大学院文学研究科博士課程中退。京都国立博物館を経て、同志社大学情報学部教授を歴任。伊藤若冲再発見の立役者であり、研究の第一人者である。

🐱著者は、京都国立博物館時代、若冲没後二百年にあたる2000年に若冲展の企画を担当している。その時の「菜蟲譜」と「石灯籠図屏風」の発見に立ち会った話や、2008年のMIHO美術館の「象と鯨図屏風」の発見に立ち会った話も興味深い。

🐱また、著者は1993年に「若冲還暦以後改元年齢加算説」を主唱している。

🐱伊藤若冲に関しては、今年は生誕三百年ということで、いろいろ盛り上がっているし、今更という感じもあるので、ここでは気になったことを簡単にメモするだけにしよう。

 
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伊藤若冲

 

◾正徳6年(1716)2月8日、錦小路高倉の南東角にあった青物問屋「桝源」三代目桝屋源左衛門の長男として生まれる。

※享保に改元されるのは6月22日なので、生年は正徳6年とするのが正しいそうだ。父は19歳、母は16歳だった。

※この年、6月2日に尾形光琳が亡くなっている(享年59歳)。

 

◾元文3年(1738)、三代目桝屋源左衛門没(享年42歳)。23歳で、「桝源」主人の後を継ぎ、四代目桝屋源左衛門となる。

※酒にも女にも技芸にも関心がなかったと云われる四代目桝源が本格的に絵を学ぶようになったのは二十代の終わり頃だろうと著者は推測している。

狩野派風の絵を極めることの無益を感じて、潔く中止し、中国画の臨写を営々と続けた若冲だったが、何とこの営為対してもどこか満足することができなくなるのである。

そうだ、自分は鶏を描くことからすべてを始めよう!

※著者によると、若冲は売茶翁から精神的に大きな影響を受けたという。売茶翁を簡単に紹介すると、月海元昭という名の偉い禅僧だったのだが、五十歳にして寺から出て、いつしか売茶翁と名乗り京都の各所で煎茶を点じて売り歩くようになったという人である。若冲は、交友関係のあった相国寺の大典顕常和尚を通じて知り合ったという。売茶翁の生き様は、池大雅など当時の京都の文化人に大きな影響を与えたという。

※その売茶翁が所持していた水さしの腹に大典の詩が書かれており、その一節に「大盈若冲」とある。これは、『老子』にある、

 大盈若沖 其用不窮

からの引用で、

「たいえいはむなしきがごときも、そのようはきわまらず」

と読み下し、

「完成したものは、どこか欠けたように見えるが、それを用いても尽きることがない」

という意味になるそうだ。

ここで、著者が注目したのが、『老子』は「沖」であり、水さしは「冲」である。著者は若冲はこの水さしを見て「若冲」という号を得たのではないかと推理している。

 
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売茶翁像(部分)若冲

 

◾宝暦5年(1755)、40歳を迎え、家督を次弟の宗厳に譲って隠居する。


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〈糸瓜群虫図〉宝暦3-4年頃 

若冲といえば「病葉」ということを決定づけた作品。

 

◾宝暦7年(1757)頃、「動植綵絵」の制作を始める。

若冲は裕福で画材にお金を惜しまなかったので、どの作品も保存状態がよいそうだ。

 
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〈秋塘群雀図〉(動植綵絵)宝暦9年

※飛び来る雀58羽の中に1羽だけ白雀がいる。粟に留まった雀16羽は全て姿態が異なる。眼は全て漆で造られて盛り上がっている。灯りをあてれば、反射で光るようにできている。

 

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〈芙蓉双鶏図〉(動植綵絵)宝暦10年頃 

※この雄鶏の恰好が凄い。若冲の絵では鶏が一番好きである。他にも好きな絵は沢山あるのだが、長くなるので省略する。

 

◾明和8年(1771)~安永3年(1774)高倉四条上ル町(帯屋町)の町年寄「若冲」が、町奉行所と組んで錦小路青物市場の営業停止を企んだ五条問屋町の画策を、粘り強い交渉の末に突き崩す。

※この事実が2008年大坂大学の奥平俊六氏の論文によって明らかにされ、若冲の人物像が一新される契機となった。

 

天明8年(1788)1月30日、京都で未曾有の大火事が起こる。洛中のほとんどの市街が焼失する。焼け出された若冲は、伏見の北に位置する深草の黄檗宗石峯寺の門前で妹とともに暮らすようになる。

※著者の説では、安永5年(1775)頃から石峯寺の裏山に五百羅漢を建立し始めたという。

 
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〈仙人掌群鶏図〉天明9年 襖六面 西福寺

 


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〈百犬図〉寛政11年 

 

◾寛政12年(1800)9月10日、数え85歳(自称87歳)でその生涯を終える。

 
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〈象と鯨図屏風〉

 

 

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🐱行きたいのだが、この季節の京都中心部は人が多いからなあ。🐥