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森の踏切番日記

人生LARKしたい

徳川家康は偉大な凡人か?

BOOKーーーーーーーーーーーー

 

 

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🐱2月5日(日曜日)の朝刊の読書面の「本を語る」のコーナーは、新聞小説として連載された『家康(一)自立篇』を刊行した安部龍太郎を取り上げていた。

 

🐱我が家では、古新聞は七ヶ月保存してから資源ゴミに出すことにしているのだが(七ヶ月分なのはスペースの都合)、資源ゴミに出す前に読み直すことにしていて、今、この『家康』を再読しているところである。

 


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🐱この『家康(一)自立篇』は、桶狭間の戦い前夜から始まり、三方ヶ原の戦いにおける敗走で終わる。家康19歳から31歳までである。著者は、

「苦しみや弱さを克服し、階段を一歩一歩上がる、成長小説として書きたかった」

という。

 


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🐱桶狭間の戦いのとき満17歳だった家康は、今川方の敗戦による危機を乗り越え、今川家から独立を果たすことになる。この時期の家康は、ごく平凡な戦国大名でまだまだ未熟だが、信長の下につくことで徐々に成長していく。この小説では、家康と瀬名との関係や母親との関係、家臣との関係が丁寧に描かれている。

 

🐱そして、三方ヶ原の大敗走で九死に一生を得るのだが、ここの描写は少し物足りなかった。単行本では加筆されただろうか。ちょっと気になるが、文庫本になるまで待つつもりである。余程のことがないと単行本は購入しないことにしている。

 


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🐱また、著者は、

「家康のすごさは、非常に普通の人であること。その凡人が努力しながら壁を乗り越える。偉大な凡人の面白さはいかようにも書ける」

とも言っている。確かに、この時代の家康は凡人だったかもしれないが、ある段階で覚醒して凡人を脱したと思う。家康が凡人のまま大大名に成長したとは思わないし、凡人のまま天下を取ったとも思わない。そもそも、天下を取るような人間を凡人とは云わないだろう。

 


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🐱去年の大河ドラマ真田丸』における徳川家康は、臆病で慎重な性格だったが、本書の家康像と通じるものがあるように思う。最近の傾向なのだろうか。

 


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🐱また、1月1日(日曜日)の朝刊の特集「日本人の忘れもの 知恵会議」(京都新聞)に寄せられた文章で安部龍太郎は、

人間のどうしようもなさの原因は、敵意とエゴイズムを乗り越えられないところにあるということだ。

幕藩体制による地方分権も、士農工商の身分の固定化による競争の排除も、農本主義の徹底による商業の抑制も、中庸を説く儒教の導入も、敵意とエゴイズムを制御するために考え抜かれた施策だったのではないだろうか。

 として、江戸幕府を開いた徳川家康を評価しているのだが、これも同意できない。

 

 
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🐱確かに、「厭離穢土欣求浄土」という旗印は、家康の理想であったかもしれないし、戦乱の時代を終わらせることは、当時の人々の共通の願いであっただろうと思うが、江戸時代の日本が理想的な社会だったとは思わない。それは、江戸時代を一面的にしか捉えていない考え方だと思うし、同じ論法で共産主義全体主義も評価することが可能だと思う。また、江戸時代の日本のような閉じたシステムというのは、エントロピーが増加しきってしまえば、破綻するものであろう。

 


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🐱家康は、当初は凡人だったかもしれないし、臆病で慎重な性格だったかもしれないが、その人生において少なくとも二度大きく変質したと思う。それは、秀吉が死んだときと大坂の陣において豊臣家を滅ぼす決断をしたときである。

 

🐱権力者もまた人間であるから人間味があるのは当然のことであるが、権力者になるような人物は、権力を所持することを決意したとき、権力を維持することを決意したとき、非人間的にならざるを得ないと考える。そこを描かなくては、権力者を描いた事にはならないと考える。今後、安部龍太郎の『家康』がどのように展開していくのか、これからが楽しみである。🐥