『ブラタモリ』#76名古屋・熱田(2/2)
~尾張名古屋は家康でもつ?
ヒノキの憂鬱
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タモリ「お~、にぎわってたんだ」
『尾張名所図会』七里渡船着(宮宿側)
タモリ「うれしいね」
近江「一致しますね、形が」
この家は、元は旅籠だった。
東海道で一番多かった。
草彅「かつて港町の中心があった浜沿いを歩きます」
秋葉神社。
人口急増のため密集していた。
熱田繁栄の証拠。
東京の秋葉原も元は秋葉社があった原っぱだったから秋葉原というとか。明治以降の新しい地名だとか。そんな話を聞いた憶えがある。
秋葉神社の来歴は神仏混淆の上に修験道も関係してくるから結構複雑みたい。しかも、明治の神仏分離令で変質した部分もあるようだし。
海岸から200mほどの所にある。
なるほど。
独立退社
ということで
タモリ「台地が始まってますね」
草彅「この先で家康が行った熱田と城下町の距離を克服するための工夫が分かるんです」
それしかないよなあ。
家康は、名古屋城を作り始めると同時に城から熱田までをつなぐ運河をつくった。
こちらを先につくると、城へ資材を運びやすくなるな。大工事だったろうな。これも天下普請だろうな。
あの阿部サダヲが命じたとは思えんなあ。
タモリ「堀川。そのままだ」
へりより高いところに堀川はある。
ブルーデルヤマト
近江アナの素朴な疑問。
台地の下はもともと低湿地。
斜面の下は運河をつくるのに適していない。
ちょうどいい高さにつくった。
今でも管理は港湾局だとか。
堀川は名古屋港の一部ということで、塩分濃度を測定してみたのだが、前夜のどしゃ降りの雨のため塩分濃度が薄まり、グダグダの結果に終わる。
森田氏の尾道仕込みの華麗なバケツさばきも不発に終わった。
よ~く分かりました。
名古屋の発展のために堀川が果たした重要な役割に関する痕跡がある。
こうなる。
江戸時代の地図。
というわけで外に出てみた。
子供の頃なら喜んで探検しただろうなあ。
痕跡がある。
それは何か?
たくさんの材木が積まれている。
この材木はどこから来た?
山村「木曽川がありますよね」
なるほど!
タモリさんは花粉症。
そりゃ尾張藩が潤うわけだ。
堀川の開削が大きかったな。
草彅「名古屋の経済的な繁栄を支え続けてきました」
タモリ「家康の計画したとおり。そのまま今も生活し続けている」
山村「まあ、そこまで見越していたかどうか分かりませんけれども…」
次回は

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