森の踏切番日記

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吉村昭の『高熱隧道』を読む(1)

10月の読書録03ーーーーーーー

 高熱隧道

 吉村昭

 新潮社(1967/06/20)

 ★★★☆

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我が家の押し入れには、祖母や伯父が遺した昭和の本がしまってあるのだが、その中に吉村昭の作品が何冊かあって、以前読んだことがある。読んだのは、『戦艦武蔵』『大本営が震えた日』『零式戦闘機』『陸奥爆沈』『海の史劇』『関東大震災』『漂流』の七作品である。いずれも史実に基づいた濃密な作品で深く印象に残っている。

もう一冊、『高熱隧道』もあったのだが、これだけは未読だった。トンネルを掘るだけの話だし、他の作品に比べると地味な印象なので、スルーしたのだろう。すっかり忘れていたのだが、先日のNHKブラタモリ』の放送で、黒部ダムが取り上げられているのを見て思い出した。そこで、押し入れから発掘して読んでみることにした。

 


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黒部峡谷

※本書では「黒部渓谷」と表記されているので、以下の文では「黒部渓谷」と表記します。

 

 

この小説は、日本電力株式会社が計画し、1936年(昭和11)8月中旬に着工した黒部第三発電所建設工事の中でも、稀にみる難工事となった隧道工事を中心に工事の過程と人間模様を、工事課長を務める土木技師の視点で描いた作品である。

本書のあとがきによると、著者は本書を執筆する十年ほど前に黒部第四発電所建設工事のおこなわれていた黒部渓谷を訪れたことがあるという。その時、欅平から仙人谷まで隧道の中を走る軌道車(関西電力黒部専用鉄道)に乗り込んだ著者は、異様な熱気と湯気を体験した。それが、著者が高熱隧道の存在とその工事が隧道工事史上きわめて稀な難工事であることを知るきっかけになった。

著者は二十日近く黒部渓谷に滞在し、貫通を急いでいた大町トンネルの工事現場の光景に大きな衝撃をおぼえた。著者は何度か作品化を試みるが、その都度失敗したという。やがて、著者の胸中に高熱の充満する隧道と大町トンネルの工事現場の光景が結びついて生まれたのが本書だということだ。

著者はこのあとがきで、工事過程については出来る限り正確さを期したが、登場人物は創作であることを断っている。

 

ここでは、この記録小説のおもに「記録」の部分を抽出し、難工事の経過を再現してみようと思う。

 


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黒部ダム完成後の黒部川発電所関西電力のみ)

NHKブラタモリ』より)

 


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宇奈月から欅平下部までの区間黒部峡谷鉄道本線)が約21km。

欅平下部から上部まで竪坑エレベーターが約200m。欅平上部から仙人谷までの区間関西電力黒部専用鉄道)が約5.5km。

その先、黒部第四発電所を経て黒部ダムまでが約17km。

 


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黒部峡谷鉄道本線欅平駅付近

 


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(50年前の単行本なので少し黄ばんでますが) 

 

 

第三発電所建設工事は、第三発電所のある欅平から第四発電所より少し下流にある仙人谷ダムまでが工事区間だった。工事は三工区に分けられた。

第一工区は、上流の仙人谷でのダム構築・取水口・沈砂池の建設と仙人谷から下流方向の阿曽原谷付近までの水路・軌道トンネルの掘削。

第二工区は、阿曽原谷付近から下流方向の(折尾谷、志合谷を経て)蜆坂谷付近までの水路・軌道トンネルの掘削。

第三工区は、蜆坂谷付近から下流部分の水路・軌道トンネルの掘削と欅平に設けられる竪坑(エレベーターを使用)と発電所の建設工事。

これらの三工区は、落札に成功した土木会社三社がそれぞれ分担して請け負うことになった。主人公の勤める土木会社は第二工区を担当することに決まった。

第二工区の工事根拠地となる、志合谷は欅平から約7km、折尾谷はさらに約4kmの道程があった。

 


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日電歩道

(出典:水平歩道 - Wikipedia


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NHKブラタモリ』より)

 

 

当時の黒部渓谷は、地元の猟師でさえ足を踏み入れない秘境で、資材を運び込むだけでも困難がともなった。上の写真のような岩をうがった細道を伝って人力で資材を運び込まなければならず、転落死亡事故が絶えなかった。

Google Earth には、日電歩道辺りにも何ヶ所かストリートビューがあるのだが、それで見てみると本当に細い道で、まさに秘境という感じがする。

 


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こちらは、黒四ダム(黒部ダム)建設時の写真。

NHKブラタモリ』より)

 

 

1年目は、冬が訪れる前に全員下山して工事は中断した。

翌1937年(昭和12)4月、工事再開。

7月、盧溝橋で日中両軍が衝突、日中戦争が始まる。当然のことながら、人夫からも徴兵されるので人員確保も課題のひとつだった。

8月上旬、第二工区で本格的に隧道工事が始まる。工事は、まず、志合谷と折尾谷から横坑を掘削していき、本坑位置に達すると、そこから上流下流両方向へ向かって本坑工事を進める。上流側、下流側からも同様に工事が進められ、それぞれ中間地点辺りで貫通させるわけである。

ここで、最も工事量が多い第一工区を請け負った土木会社が、阿曽原谷横坑の岩盤温度の上昇を理由に工事放棄する。坑口から30m掘っただけで、65℃の岩盤に突き当たったのだ。付近が温泉湧出地帯であることは分かっていたが、想定外の出来事だった。

冬期に工事を停止すると、昭和13年11月末日の完工期限に間に合いそうもないので、第二工区では、工事課長の主人公を長とした二百人を越える越冬隊を組織し、地下宿舎を設けて、豪雪で閉ざされる冬期も工事を進めることになる。

年が明けて、放棄された第一工区の全工事を主人公が勤める第二工区担当の土木会社が引き受けることが決定する。

 

1938年(昭和13)4月、国家総動員法が公布される。

黒部渓谷には技師や人夫が大量に入山してくる。主人公が勤める土木会社の作業は、進行中の第二工区本坑掘削工事、新たに第一工区隧道工事、五カ所の根拠地に設けられる本宿舎建築工事の三つに分けられた。

主人公は、第一工区隧道工事の総指揮を一任される。第一工区では、ダム建設地の仙人谷への資材運搬を容易にするために、まず軌道トンネルを貫通させる。上流の仙人谷で本坑を掘り進める一方、下流からは阿曽原谷で横坑を260mうがって本坑地点に達し、仙人谷に向かって掘進することになっていた。

阿曽原谷横坑は坑口から60mの地点で岩盤温度が75℃を記録した。仙人谷の軌道本坑も30m掘っただけで岩盤温度が40℃を越えた。以後も、掘り進むに従って岩盤温度が上昇していく。人夫たちは、熱気のこもる坑内で作業しなければならなかった。

人夫たちが動揺し始めたので、工事を中断し地質学者に再調査を依頼する。調査の結果、高温の断層を越えれば温度は下がるだろうという地質学者の見解を信じて、人夫たちにポンプで汲み上げた水を放水し、人夫と岩盤を冷やしながら作業を進めることになる。換気用の竪坑も掘られた。これらの対策は効果があったが、水はすぐにお湯になった。

※作業をする人夫たちにホースで水をかける「かけ屋」と呼ばれる係も熱いので、その後ろに「かけ屋」に水をかける「かけ屋」を配置し、その「かけ屋」も熱ければ、さらにその後ろに「かけ屋」を配置した。

 

7月1日、阿曽原谷横坑は坑口から80m地点で、岩盤温度が95℃を記録する。地質学者の見解では、ここからは温度が下がるはずであった。

7月20日、岩盤温度が107℃を記録する。地質学者もあてにならないという結論になる。

7月28日、ダイナマイトが岩盤の熱のために装填中に自然爆発を起こす。死者8名。主人公の上司である工事事務所長は、バラバラになった肉塊を、顔まで血と脂にまみれながら筵に並べ、黙々と遺体の復元作業を続けた。工事は、その夜から中止された。

富山県庁と富山県警察部からは、工事中止命令が出される。岩盤温度が120℃に達していて、火薬類取締法違反が適用された。すでに70名近い人命も犠牲になっていた。ところが、中央からは工事再開の指示が出る。黒部第三発電所建設工事は、国家的要請からきわめて重要視されていたのである。

技師たちの研究の結果、坑内の冷却装置に工夫をこらし、排気装置も取り付け、ダイナマイトをエボナイト管に入れ自然爆発を防ぐことになった。また、医師に常駐してもらうことにし、作業シフトも改訂することにした。日本電力本社からは、隧道ルートの変更計画がもたらされた。ルートを少しでも熱が低いと期待される黒部川沿いの地表に近い方に引きつけたのだ。

※坑内の上部に導水用の鉄管を通し、各所にシャワーなどが設けられた。「かけ屋」は、シャワーを浴びながら放水できるようになり、「かけ屋」の「かけ屋」を配置する必要がなくなった。

 

10月1日、工事が再開される。だが、ダイナマイトを装填する火薬係の人夫たちは、ダイナマイトの自然発火を恐れて作業を拒む。主人公は人夫頭とともに自ら作業しダイナマイトを点火させる。発破は無事成功する。人夫たちは安堵し、作業は順調にすすめられる。

10月5日、ルート変更のため阿曽原谷横坑工事の掘削距離が短縮されたこともあって、新ルートの軌道本坑位置に到達する。そこから左右両方向に向かって本坑工事がはじめられることになる。

上流側の仙人谷坑口までは約719mの距離があるが、仙人谷からの坑道はすでに105m進んでいるので、残り約614mを両側から貫通を目指して掘り進むことになる。

下流方向へは、下流の折尾谷から掘り進んでいる第二工区工事班が順調に工事を進めていて、残り120mを余すだけになっていた。折尾谷工事班の坑道は岩盤温度も40℃程度だった。

上流方向への工事は困難が予想された。横坑突き当たりの岩盤温度がすでに132℃を記録し、仙人谷側工事班の岩盤温度は92℃まで高まっていた。この先岩盤温度がさらに上昇する覚悟をしなければならなかった。

 

第二工区の折尾谷から下流方向と第三工区の軌道トンネルが、予定期限通り次々と貫通されていった。

阿曽原谷横坑から下流方向に向かった工事班は、予想通り岩盤温度が低下し、順調に掘り進んだ。11月8日午前1時35分、はげしい掘進競争の末、折尾谷工事班の先着で折尾谷・阿曽原谷間も貫通した。

これをもって、欅平から阿曽原谷にいたる4464mの軌道トンネルは開通された。これらの区間では、引き続き、水路トンネルの掘削に全力で取りかかった。主人公を班長とする阿曽原谷・仙人谷間の工事区だけが取り残される形になり、主人公は焦りを覚えた。

しかし、これから越冬をしなければならない主人公たちにとって、阿曽原谷から下流の軌道トンネルの完成は、冬期も欅平を経て宇奈月までの通行が可能になり、精神的な安心感だけでなく、越冬中の工事にもよい影響を与えることが期待できた。各工事現場の本宿舎も、ほぼ完成し入居可能となった。

11月下旬、降雪が本格的になり、たちまち渓谷は雪におおわれた。技師・人夫全員の越冬が始まった。

 

ここまでで、この小説のまだ折り返し地点である。本当の試練はここからなのである。

 


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♨次の記事へと続く

 

 

📄関連日記

🔘黒部ダムでブラタモリ(1/3) - 森の踏切番日記

🔘黒部ダムでブラタモリ(2/3) - 森の踏切番日記

🔘黒部ダムでブラタモリ(3/3) - 森の踏切番日記