ブラタモリ #99薩摩の奇跡(2/3)
~なぜ鹿児島は明治維新の主役となれた?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
島津光久は第2代藩主。
仙厳園に詳しい方?
タモリ「厳しい目で石を見ている」
なぜ独眼竜政宗がここに?
あ、島津斉彬だった。
西郷どん見てないから。
頼むと言われてもなあ。
第8代藩主だった曽祖父の島津重豪(1745-1833)に可愛がられ、その蘭癖を受け継いだ。重豪は蘭学興隆に情熱を注ぐあまり天文学的な借金を作り、藩財政が極度に窮乏することとなった。そのため重豪に感化された斉彬が藩主になると藩財政が破綻しかねないという懸念から、第10代藩主の斉興はなかなか家督を斉彬に譲ろうとしなかった。そうこうするうちに起こったのが、お由良騒動。結局、斉彬が藩主になったのは、1851年(嘉永4)のことで、時すでに43歳。
藩主に就任すると、待ってましたとばかりに集成館事業を興し、藩の富国強兵・殖産興業に努めた。仙厳園に建てられた工場群を集成館と命名したのは、1857年(安政4)のこと。
※島津斉彬が、織田信長、徳川家康、伊達政宗(!)の血を引いているということは、今回調べてみて初めて知りました。(島津斉彬 - Wikipedia)
草彅「今日は特別にお殿様じきじきに御殿を案内してくれます」
ケン・ワタナベ「ウエルカム マイ ハウスです」
謁見の間
薩摩切子
🎵未来のあなたに~?
1857年(安政4)のことでした。日本初のガス灯と言われています。
尚古集成館館長
たんたど石発見
マインクラフト?
反射炉跡でした。
1850年(嘉永3)佐賀藩(藩主鍋島直正は斉彬の従兄にあたる)が日本初の実用反射炉として築地反射炉を完成。
この技術が、水戸藩の大砲鋳造や幕府の韮山反射炉に伝えられた。
※築地反射炉 - Wikipediaを参考にしました。
佐賀藩も同様でした。
1853年(嘉永6)薩摩藩、本格的な反射炉を完成させる。砲弾鋳造には成功したが、大砲本体の鋳造は失敗に終わる。
斉彬「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり。退屈せずますます研究すべし」
1857年(安政4)2号炉完成。鉄製大砲鋳造に成功する。この大砲が台場に備え付けられて薩英戦争で使われたわけです。
この石組みは1号炉の反省を生かした2号炉の成果。
薩英戦争で破壊された?
渡辺「あっ、ていうか俺…レンガ持った!」
レンガを持ったお殿様。
薩摩焼の技術を応用しました。
佐賀藩は有田焼の技術を応用しました。
集成館事業は大小銃砲や弾丸の他にも、火薬、綿火薬、農具、刀剣、陶磁器、ガラスなどの製造、製紙、搾油、アルコール、金銀分析、メッキ、硫酸、塩など製造品目は多方面にわたった(後半はほとんど錬金術じゃん)。また造船に意を用い、洋式軍艦昇平丸、洋式帆船以呂波丸(それに関連して紡績事業)、蒸気船雲行丸の建造を行った。
公武合体・武備開国を主張した斉彬は、将軍継嗣問題ではヒー様こと一橋慶喜を推し、井伊直弼と対立。1858年(安政5)7月16日鹿児島で急死。享年50。死因はコレラとも毒殺とも言われている。
尚古集成館。世界遺産だっけ?
77m
斉彬の死後、財政問題から集成館事業は縮小されたが、薩英戦争でその重要性が再認識され、1865年(慶応1)に集成館機械工場(現尚古集成館)が建てられた。
※集成館事業 - Wikipediaを参考にしました。
それが、この建物です。
こういう建物は、赤レンガで建てるのが普通だが、この建物は赤レンガではない。
溶結凝灰岩だが、たんたど石ではない。
大木先生再登場。
尚古集成館から10kmほど離れた小野町でとれる小野石。
たんたど石は触ると冷たいが、小野石はあまり冷たくない。
夏は涼しく、冬は暖かい。
ちょっと違う?
タモリさんは思ってるんです。
🐬次の記事へと続きます。
1872年頃の集成館(磯地区)
手前(中央下)にあるのが異人館、その左後方が紡績所、その奥が現尚古集成館の蒸気鉄工機械所。
復元された鉄製150ポンド砲
(source:仙巌園 - Wikipedia)