森の踏切番日記

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『城塞』下巻再読・樫井の戦闘

『城塞』再読(14)

?司馬遼太郎の『城塞』下巻を再読しております。今回は、大河ドラマ真田丸』に先駆けて、大坂夏の陣前哨戦を振り返ります。

 


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◾元和元年4月25日、徳川方先鋒を務める藤堂高虎隊と井伊直孝隊が、それぞれ淀と伏見を進発する。対する大坂方は先制攻撃を仕掛ける。

 

 

大野主馬の大和侵攻

◾4月26日、大野主馬治房が後藤又兵衛と共に二千の兵を率いて河内・大和の国境にある暗(くらがり)峠を越えて、大和へ入る。

大和郡山城を攻める。城を守っていた筒井定慶は、城を捨てて逃亡。大坂方は城下を焼き払う。

法隆寺村に乱入、略奪、放火、暴行、殺戮を繰り返す。

※『城塞』では、淀殿が、家康陣営へ奔った大工頭の中井大和守正清の屋敷を焼き払うように命じたことになっている。

 

 

大野道犬斎の堺焼き討ち

◾4月28日、治房の弟・治胤(道犬斎)率いる二千の兵が、堺の町を焼き討ちしている。これは、徳川方に寝返ったことへの報復措置だったという。

▶一隊は、さらに岸和田城の小出吉英を攻める。

※大和でも堺でも、「大野焼け」と称して、この「無用の放火と殺戮」を呪い、大野兄弟への憎悪の伝承が、江戸期いっぱい続いたという。

 

 

紀州攻め

◾一方、大野主馬隊三千の兵は、和歌山から進撃してきた浅野長晟の兵五千を迎撃するために進発する。

紀州は、元来「難治の国」といわれ、国人達は新来の浅野家に反感を抱いていた。大坂の陣では、新宮行朝など大坂城に入城する者も多くいた。そこで大野修理は、あらかじめ国人達を扇動して一揆を蜂起させる工作をして、挟撃の手筈を整えていた。

※浅野家は、北政所の実家(厳密には養家)であるので、豊臣家とは縁戚だが、関ヶ原の時に北政所が家康を支持したので、浅野家は家康方についている。4月12日に尾張名古屋城徳川義直に嫁したのが浅野家の女(むすめ)であった。大坂方(大野修理)は浅野家を勝手に味方だと思っていたようで、浅野家の出陣を裏切りという印象で見た。

 

 

 

樫井の戦闘

◾大野主馬隊に属した塙団右衛門はかねてより、

「いくさのときには某(それがし)を先鋒に」

と、主馬にくどく頼んでいたのに、主馬は不用意にも岡部大学に先鋒を命じてしまう。岡部大学は堺焼き討ちに参加した後、紀州路を南下する。

▶4月28日深夜、岡部大学が先鋒として進んでいると知った塙団右衛門は、それを追い抜くべく二、三百の兵を率いてにわかに宿営地を出発した。

 

?『城塞』を引用すると長くなるので、『大坂の陣名将列伝』(永岡慶之助:学陽書房人物文庫)から引用します。

「おのれ大学め、先鋒たるわれらの先を行くとは、何たることぞ!」

抜け駆けされたと思って激怒した団右衛門は、ただちに馬を鞭打って街道を疾走した。

「抜け駆けされてたまるか!」

喚き、鞭を鳴らし、馬腹を蹴る。またまた一騎駆けの悪い癖が噴き出たのだが、それも気づかぬほど頭に血が上っているのだ。白地に墨痕鮮やかに

「塙団右衛門直之」

と大書した指物が奔り、その後を遅れじと淡輪六郎兵衛らの数騎が追い、兵も走る。

 ▶北上する亀田大隅率いる浅野勢と、南下する団右衛門の部隊が激突したのは、泉州樫井村の辺りである。浅野勢は、大軍が攻めて来たと勘違いして結構弱腰になっていたのだが、岡部大学と先陣を争う団右衛門は遅れた者が到着するのを待たずに敵陣へと突進する。団右衛門の勢いに、浅野勢は一時恐慌をきたしたが、やがて、盛り返し激闘となる。

▶亀田大隅の寄騎で多胡相左衛門という弓の名手が放った矢が馬上の団右衛門の左脇に突き刺さる。浅野忠知の家来八木新左衛門と、上田宗古家来横井平左衛門が、同時に槍を入れる。団右衛門はたまらず落馬する。

4月29日早暁、塙団右衛門討死。

 

 

◾その頃、大野主馬率いる本軍は、貝塚願泉寺という西本願寺派の寺で休息していた。西本願寺派は元々豊臣びいきだったのだが、既に家康が根回しをして家康方に寝返らせていた。「ボッカンさん」と土地の者から呼ばれる卜半住職は、酒と食事を振る舞い、主馬達を足止めしていたのである。どこまでも抜け目のない家康である。

▶団右衛門隊の全滅を知った主馬は、戦わずしてすごすごと大坂城へ引き上げてしまう。岡部大学は負傷して退却していた。紀州の国人達の一揆も不発に終わった。

 


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大坂の陣名将列伝』より

 

 

?塙団右衛門は江戸時代から人気の高い武将だが、その理由を司馬は次のように分析している。

かれの人柄が日本人としてその長所と短所を濃厚にもっていた典型的人物だったからであろう。

彼は詩人であった。

日本人に愛されるには、詩人もしくは詩的行動者でなければならない。

塙団右衛門の戦死の状況についても諸説あり、司馬遼太郎は、「どの説をとるべきか、迷わざるをえない」と書いている。

 

?団右衛門は、敵と戦う事よりも、岡部大学との先陣争いに勝つことで頭がいっぱいになって、最後は暴走してしまった感がある。この局地戦は、大坂方に勝機はあったのだが、大野主馬は実戦経験不足であり、統率力が無かったといわざるを得ない。?

 

 

 

 

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