森の踏切番日記

ただのグダグダな日記です/2018年4月からはマイクラ日記をつけています/スマホでのんびりしたサバイバル生活をしています/面倒くさいことは基本しません

塙団右衛門でござる

『城塞』再読(番外編)

塙団右衛門まとめ

😺塙団右衛門直之は人気の高い武将でもあるし、今さらという気もしないではないが、簡単にまとめておきたいと思う。諸説あるが、ここでは『城塞』を中心にまとめた。


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出典:小手伸也 (@KOTEshinya) on Twitter

 

 

◾生国は尾張とも遠江ともいわれはっきりしない

※当初は、通称を長八といったようだ。石取りの身分になってから塙団右衛門直之と改名したようである。

 


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◾一説によると、永禄10年(1567)生まれという

※これに従うと48年の生涯だったことになる。だいたい幸村と同世代と考えてよいか。

素姓というほどのものはなく、志を立てて京へのぼり、秀吉の家来の加藤嘉明の徒小姓になった。徒小姓というのは足軽に毛がはえたほどの身分だが、ただ、剛力の者が選ばれる。

 


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◾朝鮮の役で軍功をあげる

※敵の番船を奪い取る大功を立てた。

※朝鮮ノ陣のとき、加藤嘉明は大きな日章旗をつくり、これを屈強の力士の背に指させることにした。塙団右衛門がその役になった。

素っ裸に褌一本をむすび、背には背板をくくりつけ、それに旗竿をさし、大旗をはためかせながら一軍の先頭に立ってゆく姿は明軍を驚嘆させたというが、団右衛門はこれが自慢でたえずひとに語っていたらしい。

 


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関ヶ原の戦いで鉄砲大将に抜擢される

関ヶ原合戦の頃には、三百五十石とも千石取りの身分になっていたともいわれる。主君の加藤嘉明賤ヶ岳七本槍の一人で豊臣恩顧の大名であったが、石田三成に反発して関ヶ原では東軍に属した。この戦いで団右衛門ははじめて鉄砲大将に抜擢された。

 


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関ヶ原で暴走!

結局は合戦のとき、部下を捨てて槍働きし、このため加藤隊の鉄砲はあまり威力を発揮しなかった。

加藤嘉明は激怒し、

「お前は所詮大将になれぬ男だ」

とまで言ったので、団右衛門は、嘉明の城・伊予松山城を勝手に出奔する。しかも、その際に城門の扉に

 遂不留江南野水(遂ニ江南ノ野水ニ留マラズ)

 高飛天地一閑鷗 (高ク飛ブ天地一閑鷗)

という即興の詩を貼り付けた。「野水(田舎の大将=嘉明)を見限った鷗(団右衛門)は天高く飛翔する」という意味である。団右衛門は見かけによらず学があり、しかも詩がうまかったのだ。その詩の意味を、嘉明は人に解かせて知り激怒し、団右衛門を「奉公かまい」にしてしまった。

※「奉公構」は、秀吉が天下統一した時に定めた制度で、「この男不届きの儀あるに付召し抱えること無用に願いたし」という回状を諸大名にまわす法的処置である。後藤又兵衛黒田長政から「奉公構」をくらっている。

 


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◾団右衛門、雲水となる

※その後、小早川秀明、松平忠吉福島正則に仕えるが長くは勤まらず、京の臨済宗妙心寺の雲水になり、市中を托鉢してまわってようやく餓えをしのいだという。この時期は鉄牛と号していた。

「京の諸人これを憐れみ、又は崇むことななめならず」

とある。団右衛門は雲水姿の行装の上に大脇差をさして歩いたから、京ではずいぶん評判になったらしい。

※水戸の知人肥田志摩のもとに身を寄せていたという説もある。(『武辺咄聞書』)

 


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大坂城入城

※大坂の牢人招募とともに入城する。冬の陣では、騎馬武者および足軽をそれぞれ十名ほど従えて、大野修理の指揮下に入れられたという。

 


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◾夜討の大将塙団右衛門

慶長19年12月17日夜半、徳川方蜂須賀至鎮麾下の中村右近の陣所へ夜襲をかける。

※ここは、『大坂の陣名将列伝』(永岡慶之助:学陽書房人物文庫)から引用します。

この夜の団右衛門は、十六歳から五十歳までの侍を選抜し、これに各自に従者一人をつけて闇の中を潜行させたのである。

ただ、当夜の団右衛門は、日ごろの団右衛門らしからざる行動をとっている。つねなら自ら槍を取って、先陣切って敵陣に突進する筈なのに、橋上に床几を据えて腰をかけ、大音声でもって、

「かかれい!」

と采配を振り、

「ひけい!」

と戦場声で怒鳴っては采配を振り、最後まで橋上から動かなかったのだ。

そして、「夜討ちの大将塙団右衛門」と書いた木札を、中村右近陣所の諸方にばら撒かせて引き揚げたのである。これは、敵味方陣中で大評判になったということである。

※おそらく、自分にも大将が勤まるわい、というところを加藤嘉明に見せつけたかったのであろう。この夜討ちには、大野主馬は参加したようである。

※その後、大野主馬治房と対立して城を飛び出したこともある、という話もある。

※冬の陣講和後には、徳川方で旧知の武将が次々と訪れたという。この時、

「一度、采を振ったからにはもう気が晴れた。これからは、この手に槍を握って戦うまでよ」

と語ったという。再び戦う事は両軍の将兵達には、分かり切ったことであったのだろう。団右衛門は、

「あとは、思う存分戦って散ろう」

と思い定めて、夏の陣を迎えたのであった。

 


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😽大河ドラマ真田丸』では、又兵衛や勝永や幸村までもが参加して見せ場を完全に奪われてしまった塙ちゃんでした。

 


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😽丁寧に木札を置く塙ちゃん 

 

 

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😽一枚だけかい。 

 


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😽人の見せ場を奪った悪い奴。

 


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😽どや顔。



 

◾夏の陣・樫井の戦闘

塙団右衛門の最期はこちらの記事をご覧下さい。

 

 

 


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🙀今夜は、真田丸を見て、戦艦武蔵を見て、ロンハーを見て、真田紐を見て、ブラックホールを見よう。白いライオンも気になるなあ。🐥

 

 

 

塙団右衛門いろいろ
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出典:塙団右衛門 ~ IXA総研 ~戦国IXA 千万の覇者 武将図鑑 攻略サイト~

 

 


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出典:http://www.nobuwiki.org/character/tokai/ban-naoyuki

 

 


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出典:まんだらけ 中野店 4F 記 戦国武士の歴史小説 - まんだらけトピックス

 

 

 

📄関連図書
塙団右衛門―意地を貫いた戦国の風雲児 (PHP文庫)

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言い触らし団右衛門 (中公文庫)

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