『ブラタモリ』#82高野山(1/2)
~高野山は空海テーマパーク!?
近江「今回は後ろ前じゃない、たぶん…」
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久し振りに『ブラタモリ』やりま~す。
弘前、秩父、長瀞、十和田湖と休んだので、2ヶ月ぶりになります。
この画像は、一部を除いてスマホでテレビのモニターを撮影したものを使用しているのですが、最近、連続撮影するとスマホが熱くなりすぎてオーバーヒートを起こして機能停止になってしまうのです。アハハ。夏のせい?
そんなわけで、しばらく休んでいたのですが、今回も途中で警告が出て、ギリギリでした。やっぱり使いすぎかなあ?
高野山といえば、
近江ちゃんの今回のファッションとかヘアスタイルとかの方がいろいろ気になるわ。
受けようとしてた?
今回の旅のお題
テーマパーク好き♥
38年前は、高野山大学生だった。
空海(774-835)
延暦23年(804)、入唐。青竜寺の恵果阿闍梨から胎蔵界法、金剛界大曼陀羅法を受け、伝法潅頂を授かる。
大同元年(806)、筆写した多くの経典、図像などを携えて帰国。
弘仁7年(816)、高野山の地を賜らんことを奏請して許され、ここに金剛峯寺を開いた。
弘仁14年(823)、東寺を賜り、鎮護国家の道場とした。
弘法にも筆の誤り
空海「うどん食うかい?」
それはおいといて
木下「自身の理想のお寺だと考えられます」
草彅「空海を身近に感じられる場所なんです」
草彅「その始まりは高野山へ向かう参詣道から」
ということで、川を渡って参詣道の入り口へ向かうタモリさん。
参詣道のスタート地点に到着したタモリさん。
木下「こちらです。どうぞ」
昭和30年代まで船があった。
ここがスタート地点だとわかるものが描かれている。
タモリ「何か立ってますね」
今は参詣道の途中に移されているということで、移動。
木下「絶対、空海さんもこの道歩いてます」
木下「昔はもっと大きかったんです」
タモリ「下乗!」
後宇多天皇(1267-1324)
第91代天皇(在位1274-87)。名は世仁。亀山天皇の第二皇子。即位の年に元の第1回襲来、7年目に第2回の襲来があった。
持明院統の後深草天皇といろいろあって、亀山系の大覚寺統との両統迭立が始まる。
後二条天皇(第94代)、後醍醐天皇(第96代)の父親で、二人が天皇在位時には院政をおこなったが、元亨元年(1321)院政を停止、後醍醐天皇の親政とした。
院政をやめてからは、出家して大覚寺に住み、密教の研究に没頭した。仏道の修行に熱心で学究肌で文学も愛した「賢主」であったらしい。
木下「涙を流しています」
1313年は、持明院統の第95代花園天皇の時代だったので、大覚寺統の後宇多上皇は割と暇だったのかも。
花園天皇は、持明院統でありながら後宇多上皇をリスペクトしていたそうな。
木下「たとえ上皇さんであっても自分の足で歩きなさいということです」
平安時代に白河・鳥羽上皇の御幸があって、高野山は天下の霊場として知れわたるようになったと云われているのだけれど、その頃はどうだったのだろうか。
タモリ「沿道に白いものがずっと建ってますね」
数えていけば、あとどのくらいか分かる。
木下「実はこの形は五輪塔の形なんです」
五大ですな。
供養塔ですな。
よく知らないけれども、日本独自の形状の仏塔で、成仏できる仏塔なのだとか。
無理しすぎ。真面目な方だったのね。
文永6年。
文永の役は、文永11年(1274)、弘安の役は、弘安4年(1281)。「文永は人に梨、弘安は人に肺」て覚えたなあ。
文永6年(1269)は、元が日本に朝貢させようとして、高麗を仲介とした使者を派遣していた外交交渉の時期にあたる。
元寇との関係は、ビミョーな気がするけど。
わかりません。
近江「だいぶ、まだ、ありますね」
生きてるだけで罪なのさ。
近江ちゃんは、悪口に罪悪感を感じるようだ。
極楽に行けるとは限らない。
すべりこみセーフって!
178町石。
177町石。
176町石。
175町石。
分かるなあ。マラソンとかでも最初からゴールまで考えたら、しんどいもんな。
ということで、ゴールはまだまだ先なので、この夏の近江ちゃんを振り返ってみましょう。
#78弘前
#79秩父
#80長瀞
#81十和田湖
#81奥入瀬渓流
そして、6時間後。
20kmの山道を!?
途中で熊に襲われた!?
草履で靴ズレした?
途中で気絶した?
んなわけないか。
ホントは、175町石から車に乗りました。
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