森の踏切番日記

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鶏頭の十四五本もありぬべし 子規

正岡子規 言葉と生きる』

坪内稔典著(岩波新書

を読む・その4

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病床で仕事をする子規(明治31年:三宅雪嶺撮影)

 

 

第4章:病床時代(続き)

◾明治31年(1898)2月、「歌よみに与ふる書」を『日本』に連載開始。

◽3月、一年ぶりに人力車で根岸近辺を散歩。

◽7月13日、自らの墓碑銘を記し、河東可全(碧梧桐の兄)宛の手紙に託す。

◽7月、上野・浅草・神田界隈を人力車で散歩。

◽10月、高浜虚子が引き継いで東京に発行所を移した『ホトトギス』の第一号が発刊される。

◾明治32年(1899)1月、『俳句大要』を刊行。

◽秋、中村不折から貰った絵具で初めて水彩画「秋海棠」を描く。

◽12月、『俳人蕪村』を刊行。病室の障子をガラス張りに変える。

◾明治33年(1900)7月23日、漱石来訪。

◽8月、28年従軍時以来の大量の喀血。

◽8月26日、漱石・寅彦と面会。最後の面談となる。(9月8日、漱石、英国へ出発)

◽11月、静養に専念するために子規庵での俳句短歌例会を中止。

 

 

🔘『万葉集』再発見

仰(おおせ)の如く近来和歌は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば万葉以来実朝以来一向に振るひ不申候。

(「歌よみに与ふる書」)

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。其貫之や古今集を崇拝するは誠に気の知れぬことなどと申すものゝ実は斯く申す生も数年前迄は古今集崇拝の一人にて候ひしかば今日世人が古今集を崇拝する気味合は能く存申候。

(「ふたたび歌よみに与ふる書」)

 

🐱子規は、俳句論などには、「獺祭書屋」の号を用い、短歌に関わる時は「竹の里人」の号を用いた。

 

🐱俳句で蕪村を発見した時と同じ様に、短歌でも『万葉集』を再発見している。「万葉的な歌の勢いを再来させたい」というのが評論の意図であるという。

 

🐱明治時代は、多くの人が日本語の改良に取り組んだ。山田美妙らの言文一致体の試み、ひらがな表記を主張する人(前島密)、ローマ字表記を主張する人(西周)、果ては英語化を主張する人(森有礼)までもいるという混乱した状況だった。そうした中で、上田萬年による日本語の標準語化及び仮名遣いの統一化が進められていた。この問題は、言葉を使ってどのように表現するかという問題でもある。

日本語をどのように見るかは、同時に表現や文学をどのように見るか、という問題である。

 

🐱こうした中で、子規は、日本語によるあらゆる文学表現を革新しようとしていたと思われる。しかも、理論だけでなく実践も試みるのが子規のやり方だった。短歌についても、最初は理論も実践も完成されたものではなかったが、試行錯誤を重ねる中で完成度を高めていったようである。

 

🐱著者によると、「個人の感情に他者への通路を開くこと」が、俳句・短歌・写生文で子規が求めたことだという。文学表現における「自分」の感情は、「他者に共有されないと、単なる独善に終わる」のだ。

「われ」は他者に向かって開かれる。

その他者へ開く方法の一つが写生であり、写生に伴う客観的な見方や表現法であった。

 

🐱『万葉集』を発見した子規が、その中から見つけたものの一つが滑稽美であるという。

滑稽は文学趣味の一なり。然るに我邦の人、歌よみたると絵師たると漢詩家たるとに論なく一般に滑稽を排斥し、万葉の滑稽も俳句の滑稽も狂歌狂句の滑稽も苟(いやしく)も滑稽とだにいへば一網に打尽して美術文学の範囲外に投げ出さんとする、是れ滑稽美の趣味を解せざるの致す所なり。

真面目の趣を解して滑稽の趣を解せざる者は共に文学を語るに足らず。否。味噌の味を知らざれば鯛の味を知るに能はず、滑稽の趣を解せざれば真面目の趣を解する能はず。

(「万葉集巻十六」)

著者によると、「滑稽美は子規の短歌に現れた美の一部」であり、それが「子規の特色のすべてではない」とのことである。

 

 

 柿の実のあまきもありぬ柿の実の

    しぶきもありぬしぶきぞうまき

 昔せし童遊びをなつかしみ

    こより花火に余念なしわれは

 人皆の箱根伊香保と遊ぶ日を

    庵にこもりて蠅殺すわれは

 朝な朝な一枝折りて此頃は

    乏しく咲きぬ撫子の花

 真砂なす数なき星の其の中に

    吾に向ひて光る星あり

 

 

🐱明治31年7月13日、河東銓(可全)に宛てた手紙に自らの墓碑銘を記して託している。

正岡子規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升

又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人

又ノ名ハ竹ノ里人伊予松山ニ生レ東

京根岸ニ住ス父隼太松山藩

馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養

ハル日本新聞社員タリ明治三十□年

□月□日没ス享年三十□月給四十円

🐱著者は、この墓碑銘について、「内容は暗いのだが、音読すると楽しい」という。子規は、「書く楽しさを遊んでいる」と見ている。

 

🐱子規は、「拝啓」(明治31年3月)という文章で、自身のほぼ寝たきり生活について、

考へて見れば実につまらぬ身の上にて何のために生きて居るかと思ひ候へども馴るゝ者にて平日は左程苦にもならず候。

と記しているが、著者は、子規は書くことで「絶望的な状況」を離れているという。つまり、書くことによって自己を客体化しているというのだ。

 

🐱そんな子規の心の慰めは庭に咲いた草花であった。いろいろな草花が植えられている庭の様子を俳句によって紹介した「小園の図」が楽しい。

花は我が世界にして草花は我が命なり。

(「吾幼時の美感」明治31年) 

 

🐱来客も多い。この時期は、句会や歌会、それに、『蕪村句集』輪講会が定期的に開かれている。明治33年には、伊藤左千夫や長塚節も歌会に参加している。

 我庵に人集まりて歌詠めば

    鉢の菫に日は傾きぬ

 

🐱明治31年10月に高浜虚子が引き継いだ『ホトトギス』を子規が全面的に協力することで、二人の関係は「非常に密接」(「子規居士と余」高浜虚子)になった。『ホトトギス』において子規が新たに力を注いだのは写生文の実践である。「面白い」ということが子規の写生文の大事な要素であるという。「作者が面白いと思ったことを読者が面白いと感じる、そういうことが実現するのが写生文」なのだという。しかも、陳腐ではいけないのだ。

 

🐱ここでは触れられていないが、「組み合わせの妙」というのもあるかと思う。俳句の「配合」的なものである。子規の「雲の日記」の、

二十一日 真綿の如き雲あり。虚子来る。

という一行にふんわりとした面白さを感じる。

 

🐱こうした『ホトトギス』を場にした文章運動について、柳田国男は、「文章と生活の結合」であったと評価しているということだ。

 

🐱ほぼ寝たきり生活の子規にとって最大の楽しみは食べることと言っても過言ではないだろう。闇汁会まで催している。しかも、その様子を参加者各人の作った俳句で説明する「闇汁の図」を作っている。子規は俳句・短歌・文章でも、日常生活でも「他者と共に楽しむこと」を実践する人だったのだ。

病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない。

(『病牀六尺』明治35年7月26日)

 

🐱生きることに対する子規のこうした姿勢が、彼の決して長くはなかった人生を実り豊なものにしたのではないだろうか。人生は、どんなときでも楽しまなくては損である。

 

 

 

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鶏頭の十四五本もありぬべし

🐱この句は、明治33年9月の句会で作られたものだが、その評価について、後に「鶏頭論争」と呼ばれる論争が起きたことで有名。


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「仰臥漫録」女郎花と鶏頭(子規筆)